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The forgotten recollections of Chigorin’s daughter | ChessVibes


チゴリン(Mikhail Chigorin) 1850年〜1908年

当時のソ連をチェス大国として築き上げた最大の功労者。競技者としても世界チャンピオン・

シュタイニッツとの2度にわたる世界選手権など、ロシア最初の世界的なトップ・プレーヤー

だった。


 


以下、「楽しいチェス読本」ロフリン著 日本チェス協会訳編 ベースボール・マガジン社 より引用。


ペトロフ、チゴリンとロシア流派



1821年2月、チェスについて、ロシア語で書かれた最初の本が出版されました。「チェス競技について」と題された

この本の著者は、イワン・ブツリモーフでした。彼は、コッフや外国の名人たちがロシアにチェスを普及させようと

努力してきた成果のうえに、この本を書きあげたのです。



ロシアでの最初の大名人は、19世紀中頃のアレクサンドル・ペトロフ(1794〜1867)でした。彼は理論家としても

有名で、ペトロフ・ディフェンスという名を残し、序盤戦の研究に貢献しました。彼に敬意を表して、外国では彼を

「北のフィリドール」と呼んだものです。ロシアにおけるチェスの発展は、彼の指導によるところが大きかったとい

えるでしょう。彼は「チェス競技に秩序をもたらしたのは、フィリドールの競技に添付された彼の注釈によってで

ある」と述べています。ペトロフは、偉大なプレーヤー・フィリドールの分析的研究について述べつつ、「フィリドー

ルのチェスの実戦を適用してできるだけ整然としたチェス理論を紹介したい」と決意を語っています。



ペトロフはその著書を通じて、何世紀ものロシアのプレーヤーたちを指導したのです。そのなかに偉大なチゴリン

もおります。ペトロフの同時代人と弟子のなかには、機械学者のヤニッシュ、チェス分析者のシェーモフ、チェスの

芸術家ウルーソフ兄弟などがいます。S.ウルーソフは、ロシアの大作家トルストイの友人で、彼らの間には文通が

行われ、トルストイの家にたびたび招かれていたようです。



チェスの普及に尽力した人のなかに、ミハイロフがおります。彼はロシア最初の定期雑誌「チェスノート」の編集者

でした。ペテルブルクのプレーヤーで、文芸・科学の保護者でもあったクシェリョフ・ベズボロッコも貢献者の1人で

す。彼は月刊誌「ロシア言論」の編集者でもありました。



革命前ロシアのプレーヤーたちは、たびたび反動勢力の抵抗にあいました。保守派はチェスを、民主勢力の危険

な連絡手段とみなしていたのです。1862年のペテルブルグでは、チェスクラブは閉鎖されてしまいました。19世紀

後半のプレーヤーには、大名人のシッフェルスがいます。彼はチゴーリンに大きな影響を与えた理論家でもありま

した。1896年、ロストフにおいてシッフェルスは世界チャンピオンの座を降りたばかりのシュタイニッツと対戦して

います。もちろん敗れはしましたが、4勝6敗1引き分けの成績を残しています。すぐれた教育者であったシッフェル

スの業績のなかに、6版を重ねた「序盤と終盤戦における概要」があります。彼は長い間、ペテルブルクの新聞や

雑誌「ネバ」のチェス欄を担当していました。



19世紀後半のロシアにおけるチェス芸術の成果は、名人チゴリンによって体現されています。彼はロシア流派の

創始者といえましょう。「チェスの社会的意義を理解し、チェスに創造性をもちこんだロシアで最初のプレーヤー

は、ミハイル・チゴリンである。彼は専制ロシアの困難な状況下で、未来への視点をプレーヤーたちに植えつけ

た」とボトビニクは述べています。



1881年にチゴリンは、はじめて外国で対戦しました。それは、ベルリンの国際大会でした。準決勝まで進み、3〜4

位を分け合いましたが、その後、1889年ニューヨークで1位、1895年ゲッチンゲンで2位、1896年ブダペストで1位、

1898年ケルンでも1位でした。ゲッチンゲン大会で彼は、ピルスベリーラスカータラシュに勝って入賞していま

す。彼のスタイルの特徴は、すばらしい攻撃テクニックや終盤戦での緻密な寄せにあり、世界のチェス界でも高く

評価されていました。



1889年ハバナで、シュタイニッツとチゴリンの世界選手権が行われました。白のチゴリンはひたすら、エバンズ・

ギャンビットで競技しました。類似した戦術がぶつかりあうと、多くの欠陥が露呈します。対戦相手の世界チャンピ

オン、シュタイニッツの最大の武器はクィーンズ・ギャンビットだったからです。執拗な戦いの結果、シュタイニッツ

の10勝6敗1引き分けに終わりましたが、シュタイニッツはチゴリンのコンビネーションによって苦戦を強いられて

いたのです。1891年、チゴリンは当時アメリカに住んでいたシュタイニッツとの間で、電報による試合をおこない

勝利を得ています。



1892年ハバナで、リターンマッチが行われました。チゴリンはこの大会に、彼の全能力を注ぎこみました。彼の夢

であった、ロシアへ王座を持ち帰るためでした。10ゲームが終了した時点では、チゴリンの4勝2敗4引き分けでし

た。人々はチゴリンの優勝を疑いませんでしたが、シュタイニッツは奮闘し、6勝のタイに持ち込んだのです。試合

への関心は、がぜん盛り上がり、各国の大新聞は、きそって試合経過を報道しました。愛好者たちの興奮は、

最終戦をひかえて頂点に達していました。白のチゴリンは、キングズ・ギャンビットを選んで試合開始。このときま

でにシュタイニッツの9勝8敗(10勝した者の勝利)となっており、チゴリンが勝てばもう1試合することになります。

チゴーリンの不用意な駒の移行(26手目)が、強烈な攻撃を受ける原因となり、チゴリンは予期せぬ過ちの結果

(h2の守りからビショップが離れた)。シュタイニッツは2手でメイトを勝ちとりました。最終結果は10勝8敗5引き分け

となり、シュタイニッツがチャンピオンを防衛しました。



世界中の新聞がシュタイニッツの成功を、ピルスの勝利(エピルス王ピルスがローマ軍を破った故事。大きな犠牲

を払ってわずかに得た勝利のこと)と報じました。「大胆かつ積極的なチゴリンのスタイルは、すべての人の共感

を呼んだ。彼の深みのあるコンビネーションは、綿密なポジション分析の後にやっと理解と評価が可能なのであ

る。予期せぬすばらしい攻撃は、彼の試合にどれほど魅力を与えていることだろう。それらは楽しみながら吟味

し、研究することができるのである」(La Strategie紙、1892年3月)。「チゴリンのコンビネーションは、まさに偉大

な名人だけが創造しうるものである」とイギリスの名人ガンズバークは語っています。1881年から1889年の間に、

チゴリンとシュタイニッツは45試合戦っており、そのうち24回はチゴリンが勝利をおさめています。「事実は消す

ことができない。私はまったくチゴリンと競技し得ない」とシュタイニッツは告白しています。



1893年、ペテルブルグで行われた世界選手権挑戦者選出大会におけるチゴリンとタラシュの成績は、9勝9敗4分

けとまったくの五分に終わりました。チゴリンは、彼と対立する見解をもつ杓子定規なポジションの改革者タラシュ

と、優劣つけがたい闘争を行ったのです。チゴリンの努力は、チェス思考における美の理解と、創造の多様性に

おける真実の探求へ向けられていたと言えます。



チゴリンの社会的活動や先駆者としての活動について再評価することは大切です。革命前のロシアにおける、

多様なチェス政策のすべてに彼は関係していたのです。彼はすべてを、ロシアのチェス文化発展のために捧げ

ました。彼の実施したチェス政策には、全ロシア選手権の設置、チェス組織の団結、雑誌の発行と新聞のチェス

欄の獲得、各地での講演活動と集会参加、貧しいプレーヤーへの援助などです。



通信試合に対するチゴリンの関心も広く知られていました。1878年から活動をやめるときまで、彼は手紙による

通信競技に積極的に参加しました。愛好者たちと経験や知識を分かち合うということは、彼にとって最も重要なこ

とでした。チゴリンは、単に手順を書いただけの形式的な手紙ではなく、彼独特の簡潔な注釈を付け、有益な忠告

を与えたのです。「チェスは才能を引き出し、生活を拡大する。これは他のどんな芸術にもできないことだ」と彼は

語っています。



専制ロシアでは、チゴリンの才能は十分には発揮できませんでした。死ぬ前の友人たちとの座談で、彼はこう言っ

ています。「現状では、チェスのために何かをすることは困難です。私自身は夢を実現することはできなかったけ

れども、死後に10人位はチェスに熱中できる人間を残せたと思う。いずれ彼らが100人、1000人と広がってゆくだ

ろう。」 文学におけるプーシキンや、音楽におけるグリンカと同じように、チゴリンはチェス芸術における泰斗とし

て、歴史に残り続けるでしょう。



 



以下、「チェス戦略大全1 駒の活用法」ルディック・パッハマン著 小笠誠一訳 評言社 より引用。



ミハイル・イワノビッチ・チゴリンはオープン・ゲームの戦い方を極めた。何より彼の試合がそれを証明している。

彼は白をもつとオープン・ゲーム以外で戦うことはなく、局面が閉ざされやすいルイ・ロペスを避けた。その晩年の

頃には誰もがクイーンズ・ギャンビットを指していたが、彼は主義として決してクイーンズ・ギャンビットを指さなかっ

た。しかしチゴリンは、特定のギャンビット(エバンズ・ギャンビットやキングズ・ギャンビット)の研究には大いに貢献

している。



なぜなら、防御の技術がたいへんな進歩を見せていた当時において、理詰めにこれらの戦法を用いて勝利を収め

たからである。またチゴリンは、黒をもったときにも積極的な姿勢を見せた。クイーンズ・ギャンビットに対して、...e5

と指して局面を開こうとする彼のアイデアはとりわけ注目に値する。



彼の名を冠したシステムはそのようなアイデアに基づいている。

1 d4 d5 2.c4 Nc6

また今日よく見られるセミ・スラブ・オープニングもそうである。

1.d4 d5 2.c4 e6 3.Nc3 c6

この後、ポーンの前進(...e5)が焦点となる。さらにまた、当時革命的であった定跡もそのようなアイデアに基づいて

いる。

1.d4 Nf6 2...d6

これは、現代チェスにおける代表的な定跡の一つであるキングズ・インディアンの先駆である。



また彼は、ルイ・ロペスに対する黒の新しい対処法を発想した。これらは多くの有名な防御変化の基礎を築くもの

になっている。先人たちと同様にチゴリンは常に積極的な試合を目指し、攻撃の糸口を見出しては論理的かつ

精力的にそれを生かしていった。守りに回ったときは、消極的な構えを避け反撃に重点を置いた。しかしチゴリン

の創造的な取り組み方は、たゆまぬ新手の探求において最も顕著である。未知の新手には大きな危険が伴って

おり、それに立ち向かう姿が我々に芸術的な感動を与える。ハイパーモダン派の劇的な登場にも関わらず、彼の

創造的なチェス概念は当時の人たちや若い世代に影響を与えた。



 


チゴリンの名局


Mikhail Chigorin vs Wilhelm Steinitz
Kabelmatch 1890 ・ Italian Game: Evans Gambit. Slow Variation (C52) ・ 1-0

Mega 2014: the Rolls-Royce of databases | Chess News



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Isidor Gunsberg vs Mikhail Chigorin
Havana (Match) 1890 ・ Spanish Game: Morphy Defense. Anderssen Variation (C77) ・ 0-1




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Mikhail Chigorin vs Wilhelm Steinitz
Steinitz-Chigorin World Championship Rematch (1892) ・
Italian Game: Evans Gambit. Slow Variation (C52) ・ 1-0




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Emanuel Lasker vs Mikhail Chigorin
"Gettin' Chiggy Wit It" (game of the day Nov-30-07)
Hastings (1895) ・ Queen Pawn Game: Anti-Torre (D02) ・ 0-1




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Mikhail Chigorin vs Rudolf Rezso Charousek
"Giuoco Fortissimo" (game of the day Sep-19-11)
Nuremberg (1896) ・ Italian Game: Classical Variation. Giuoco Pianissimo (C50) ・ 1-0




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Mikhail Chigorin vs James Mortimer
"James Mortified" (game of the day Jul-07-05)
Paris (1900) ・ Vienna Game: Vienna Gambit. Steinitz Gambit Zukertort Defense (C25) ・ 1-0




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Mikhail Chigorin vs Eugene Aleksandrovich Znosko-Borovsky
"Careful with Attacks, Eugene" (game of the day Jul-12-06)
Kiev 1903 ・ King's Gambit: Falkbeer Countergambit. Anderssen Attack (C31) ・ 1-0




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Mikhail Chigorin vs Carl Schlechter
"A Sharp Tie" (game of the day May-29-10)
Ostend (1905) ・ King's Gambit: Declined. Classical Variation (C30) ・ 1/2-1/2




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チゴリンが負けた名局

Wilhelm Steinitz vs Mikhail Chigorin
"Good Wil Hunting" (game of the day Jun-18-09)
Steinitz-Chigorin World Championship Rematch (1892) ・ Spanish Game: General (C65) ・ 1-0



この試合は、チェスの歴史上最も偉大な125試合を詳しく解説した著名な文献
「The Mammoth Book of the World's Greatest Chess Games」に掲載されている。




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Erich Cohn vs Mikhail Chigorin
Karlsbad (1907), Karlsbad CZE, rd 15, Sep-09
Old Indian Defense: General (A53) ・ 1-0




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チゴリンが解説した試合

David Janowski vs Alphonse Goetz
"Get Your Goetz" (game of the day Feb-15-05)
Paris 1891 ・ Italian Game: Classical Variation. Greco Gambit Traditional Line (C54) ・ 1-0




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チゴリンの名局集


Santasiere's "My Love Affair With Tchigorin"
Compiled by Resignation Trap


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チゴリンの全棋譜はこちら


The Saburovs by Edward Winter


File:Mikhail Chigorin vs Andrej A?arin 1892 Riga.jpg - Wikimedia Commons







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