Henry Nelson Pillsbury: enormous talent and an early death | ChessBase
1895年のヘイスティングズ大会
Standing: Lasker, Charousek, Schlechter, two organisers, Janowsky, Maróczy, Marco, Showalter, three organisers
Seated: Albin, Porges, Chigorin, Tarrasch, Winawer, Steinitz, Blackburne, Schallopp, Schiffers, Pillsbury, Walbrodt, Teichmann
ピルズベリーは前列右から3番目です。
File:Harry Nelson Pillsbury.jpg - Wikipedia, the free encyclopedia ピルズベリー(Harry Nelson Pillsbury) 1872年~1906年 ピルズベリーは母親の死をきっかけに16歳からチェスを始め、その後アメリカでは最強の 実力を持つようになります。そして世界チャンピオンになることを目指して、当時の世界 チャンピオン・ラスカーへの挑戦を探りますが実現できませんでした。彼はチェッカーに関 しても名人でしたが、余興で目隠しチェスを好み、1900年には20人を同時に目隠しチェス で対戦するという当時の世界記録を出しています。この時の余興を見た幼いカパブランカ は感銘を受け、この出来事をきっかけとして、ハバナのチェスクラブに通うようになります。 ピルズベリーは病気で36歳の若さでこの世を去りました。 「いちばん学べる名局集」アーヴィング・チェルネフ著 水野優訳では、下の試合の詳しい 解説がされています。(以下本書より抜粋引用) ちっぽけなポーンの前進・・・どんなトーナメントにも、息をのむような瞬間がたいていあるものだが、 1895年のヘイスティングズ大会を超えるものは、ないと言っていい。 そもそも、強豪棋士たちが一同に集えるようになったのは、1851年に国際チェス大会が運営される ようになってからのことだ。それまでは、世界レベルのマスターたちがトーナメントで対戦する機会が なかったので、がぜん関心が巻き起こった。世界チャンピオンのラスカーと前チャンピオンのグラン ドマスター、シュタイニッツでさえ、トーナメントでは対戦したことがなかった。この両者は、国際トーナ メントで4連覇した強豪タラッシュ博士とも相まみえたことがなかった。他の勢力も台頭してきた。 チゴリンは、タラッシュとのマッチを激戦のすえ引分けに終えていた。若きシュレヒターは、古株たち から恐るべき強敵と見なされ、新星ヤノフスキーとミーゼスは、その激しい攻撃的棋風を知られて 恐れられた。イギリスからはブラックバーンとタイヒマンがやってきた。両者とも、野心的なマスター にとって危険な存在だった。彼らを除けば、他にシッフェルス、バルデレーベン、ヴァルプロット、グン スベルグ、マルコ、バーンが挙げられる。 想像力をたくましくしなければ、無名のピルズベリーが優勝することなど、チェス界には想像できな かった。この若者が驚くほどたやすく正確に勝ち進んでいくごとに、彼への関心が高まっていったこ とを想像しよう。最終ラウンドをピルズベリーがリードして迎えたときの観衆の興奮を。できれば想像 してみよう。優勝候補は3人いた。それまでのポイントは、ピルズベリー 15.5、チゴリン 15、ラスカー 14.5だ。ラスカーは世界チャンピオンらしく、バーンを20手であっさり片づけた。チゴリンはシュレヒター に少々手こずったが、最終的には長い対局を制した。 一方、ピルズベリーはドローで優勝できると考え、グンスベルグに対して序盤を穏やかに指し、ほとん どのピース交換を許していた。突然危機感に襲われたピルズベリーは、打ち負かしたばかりのタラッ シュ、シュタイニッツ、ヤノフスキー、ポロック、バーンを彷彿させるほど精力的かつ華麗に戦い始め た。その称賛すべき終盤戦の指し方に関しては、ラインフェルドが詳しい。 『突然、ピルズベリーの盤上には、生彩のないキングとポーンだけの終盤戦が現れた。ピルズベリー は貴重なポーンを捨てた。それとも失ったのか? 彼は、グンスベルグが昇格へと急ぐパスポーンを 両サイドに作るのを許した。ピルズベリーのキングが両サイドのポーンを止めることは不可能に見え た。競技会場の興奮が限界を超えた。ピルズベリーの苦境が、観衆にもはっきりわかったからだ。 ただ一人落ち着いていたのか、おそらく落ち着いているように見えたのはピルズベリーだった。彼は、 微細に至るまで読み切っていた。独自の才能の白熱したひらめきにより、不毛に見える局面から直観 的に可能性を感じ取っていた。容赦ない正確さで、ぎりぎり間に合う勝利を導き出していたのだ。数手 後に、終盤戦はピルズベリーの予想通りになり、グンスベルグが投了した』 Harry Nelson Pillsbury vs Isidor Gunsberg "Have Guns, Pill Travel" (game of the day Sep-30-11) Hastings (1895) · Slav Defense: General (D10) · 1-0 pillsbury_gunsberg_1895.pgn へのリンク 1895年のヘイスティングズ大会 Henry Nelson Pillsbury: enormous talent and an early death | ChessBase
この大会で指された全棋譜 棋譜を見るにはブラウザ「Internet Explorer」が必要で、 「Google Chrome」では出来ません。 またJAVA アプレットがインストールされていないと棋譜が表示されません。 Javaコントロール・パネルでのセキュリティ・レベルの設定 Hastings_1895.pgn へのリンク (チェス棋譜再現ソフトをご用意ください) |
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「チェックメイトの技法」第2版 ジョルジュ・ルノー、ヴィクトル・カーン著 水野優訳 チェストランス出版 より以下引用。 『ハリー・ネルソン・ピルスベリー(1872~1906)は当時アメリカの最強棋士で、とても攻撃的な棋風 で多くの国際大会で入賞した。ヘイスティングズ(1895)優勝、パリ(1902)2位、ミュンヘン(1900) 優勝。まれに見る目隠し対局の名人でもあり、23局同時目隠し対局の世界記録を持っていた。 ケンブリッジ・スプリングズ防御として知られるクイーンズ・ギャンビッ・ディクラインドの一変化と、 同ギャンビットの一攻撃局面を考案し、1897年から没年の1906年までアメリカのチャンピオンを 守った。』 |
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Henry Nelson Pillsbury: enormous talent and an early death | ChessBase 23歳のとき ピルズベリーの名局集 pillsbury's best games of chess Compiled by bengalcat47 棋譜を見るにはブラウザ「Internet Explorer」が必要で、 「Google Chrome」では出来ません。 またJAVA アプレットがインストールされていないと棋譜が表示されません。 Javaコントロール・パネルでのセキュリティ・レベルの設定 Pillsbury_Best.pgn へのリンク (チェス棋譜再現ソフトをご用意ください) ピルズベリーが解説した局 棋譜を見るにはブラウザ「Internet Explorer」が必要で、 「Google Chrome」では出来ません。 またJAVA アプレットがインストールされていないと棋譜が表示されません。 Javaコントロール・パネルでのセキュリティ・レベルの設定 (チェス棋譜再現ソフトをご用意ください) |
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ChessBase.com - Edward Winter's Chess Explorations (25) ピルズベリーの全棋譜 棋譜を見るにはブラウザ「Internet Explorer」が必要で、 「Google Chrome」では出来ません。 またJAVA アプレットがインストールされていないと棋譜が表示されません。 Javaコントロール・パネルでのセキュリティ・レベルの設定 Pillsbury_All.pgn へのリンク (チェス棋譜再現ソフトをご用意ください) |
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19世紀(16~17世紀も含む)に指されたチェスの名局集 |