「バイキング」
大海の覇者の素顔
ナショナル ジオグラフィック 2017年3月号 より写真・文 引用
本書 より抜粋引用 文=ヘザー・プリングル 作家 写真=ロバート・クラーク、デビッド・グッテンフェルダー 大災害から生まれた戦士 ![]() プライスは言う。30を越す小王国が連立して権力争いを繰り広げるなか、大災害が起きた。536年、彗星か隕石の落下 に少なくとも1回の大規模な火山噴火が重なり、大量のちりや噴煙が陽光を遮ると、その後14年にわたって北半球は 冷夏に見舞われた。中世にはスカンディナビアが農耕の北限だったが、長引く寒さと日照不足で人々は餓死し、耕地は 放棄された。たとえばスウェーデン中部のウップランド地方では、飢餓と戦乱で75%近い村々が滅びた。 この大災害の影響を受けて生まれたとみられるのが、北欧神話の「ラグナロク」だ。世界中を探してもこれほど暗い神話 はちょっとない。世界の創造が終わり、最終戦争が起きて、すべての神々、人間、生き物が死に絶える。ラグナロクは、 太陽が光を失い、厳しい天候が続く死の季節「フィンブルの冬」で始める。この伝承は空が暗く閉ざされた536年以降の 気象と気味悪いほど重なると、プライスは指摘する。 陽光が戻り、人口が回復し始めると、武装した戦闘集団のリーダーが、放棄された土地を占拠して縄張り争いを繰り広 げるようになった。その結果、戦士としての勇猛さ、攻撃性、悪賢さ、実戦での強さが評価される好戦的な社会が生まれ た。スウェーデンのゴットランド島で、この時代の墓が手つかずの状態で多く見つかっているが、「ほぼ2人に1人が武器 と一緒に埋葬されているようです」と、ウプサラ大学の考古学者ジョン・リュンクビストは言う。 軍事的な社会が形成される一方で、7世紀には帆走という新しい技術がスカンディナビアの航海に革命をもたらした。 大勢の戦士を乗せ、帆に風を受けてかつてない速さで遠くまで行ける流線型の船を、腕のたつ船大工が造るように なった。北方の首領とその手下たちはこうした船でバルト海や北海を渡り、未知の陸地を発見し、町や村を占拠し、住民 を奴隷にした。祖国では結婚のあてがない戦士は、女性の捕虜を説得するか、力づくで妻にした。 数世紀に及ぶ領土拡大の野望、独身の若い戦士が大勢いたとおぼしき状況、新型の船の登場・・・・北方からあふれ 出たバイキングがその暴虐さを旗印に、ヨーロッパの広い地域を戦火に巻き込む素地が、こうして整った。 初期はエリートの集団 750年頃、初期のバイキングの一団がエストニア沖のサーレマー島の岬に2隻の船を引き揚げた。彼らは遠くスウェーデン のウプサラに近い森林地帯の出身で、襲撃で大きな痛手を受け、命からがらこの島にたどり着いたのだった。船には首領 らしき男性を含めて40体余りの遺体が収容されていた。全員、青年期か壮年期で、多くは激しい戦いの痕が見られ、首を 切り落とされた者もいた。 生き残った戦士たちはおぞましい作業を始めた。切断された部位を合わせ、最も大型の船に遺体の大半を納めて布で 覆うと、盾を上にかぶせて、間に合わせの墳墓とした。 2008年、サーレマー島のサルメ村で電線の埋設作業中に、人骨とさびた剣の一部が発見された。「明らかな襲撃の痕跡 が発掘されたのは、これが初めてなんです」と、プライスは言う。だが、それより驚いたのは、遺体が、バイキング初の 襲撃が起きたとされる年より50年近く前のものとみられることだ。これまでは、イングランドのリンディスファーン島にある 修道院が襲撃された793年が最古と考えられていた。 サルメの遺構は研究者の興味をかき立てる。「私が目を見張ったのは多数の剣です」とプライスは言う。長い間、バイキ ングの初期の襲撃を担ったのは、剣など高価な武器をもつ少数のエリート戦士と安価な槍や長弓で武装した数十人の 若い農民からなる部隊だと考えられてきた。だが、サルメの遺構はこうした考えに疑問を投げかける。遺体よりも多くの剣 が出土したことから、少なくとも初期の襲撃には、高位の戦士たちが多く参加していた可能性がある。 1月のある朝、スコットランドのエディンバラ南部の工業団地を訪ねた。研究チームはここで1年余り、バイキングが手に 入れた財宝の数々を調べている。スコットランド南西部のギャロウェー地方に約1100年前に埋められた財宝は、純金の塊 や、ビザンツ帝国がイスラムの世界からもたらされた金銀糸を織り込んだ絹織物など、風変わりな美しい品々だ。バイキン グ時代を専門とする考古学者オルウィン・オーウェンは「信じがたい発見です」と言う。 遺物保管の専門家が、特に珍しい出土品を作業台に並べていた。鳥の形をした細かい金のピンは、かつて聖職者か聖典 を読むときに使用した。文字を指すための小さな指示棒「エステル」に似ている。その横には、金の透かし細工のペンダン トがあった。聖人の小さな遺物を収めるためのものかもしれない。オーウェンは9個の銀のブローチに見入っていた。一つ を除いて、すべてアングロ・サクソン人が身に着けるために作られたものだと言う。つまりそれは、アングロ・サクソンの 修道院か集落が略奪されたことを意味していた。 こうした財宝を奪ったバイキングのリーダーは美しい物に目がなかった。略奪品をすべて溶かして金属の塊にするのでは なく、一部は自分のコレクションとした。英ヨーク大学の考古学者スティーブ・アシュビーによると、彼らは優れた工芸品を 好み、一部のエリートは地位を誇示するシンボルとして所有したという。 リーダーはアイシャドーを塗り、派手な衣服をまとい、たくさんの宝飾品を身に着けていた。そうした物の一つひとつが、 異国に雄飛し、果敢に戦い、その男気が報われたことを物語る。いわば彼らは新兵募集の生きた広告塔で、若者はその 姿を見て、自分も分け前にあずかりたいと忠誠を誓う。「リーダーは権力基盤を維持するために、自分の戦績を誇示する 必要があったのです」と、アシュビーは言う。 初期バイキング時代に襲われたのは、主に沿岸部か島の修道院で、バイキングは事前に情報を得ていたようだ。スカン ディナビアの交易商人はすでに英国やヨーロッパ大陸の沿岸で活発に取引をしていた。彼らはすぐに、市場の多くが修道 院の礼拝堂を飾る金製品に目を留めたはずだ。プライスは言う。「深く考えずとも、誰かが気づいたでしょう。『お宝は盗め ばいいじゃないか』と」 初期には襲撃は夏に計画され、大抵は数隻の船に推定100人の戦士が乗り込んで出陣した。鉄製の武器で急襲をかけ、 住民が反撃の態勢を整える前に出航する。フランスでは9世紀だけでも120以上の集落が襲われ、教会の財宝は盗まれて 生存者は奴隷にされた。 スカンディナビアに貴金属が流入すると、若者たちはバイキングのリーダーの元にはせ参じ、われ先に忠誠を誓った。 当初、2、3隻の船で行っていた襲撃は30隻もの船団を組むようになり、やがてはるかに大規模なものへと発展した。アン グロ・サクソンの年代記には、865年の大軍勢の襲来が記されている。乗組員を満載した船が何百隻もイングランド東岸に 到着したという。バイキングは王国を次々に征服して、広大な地域を植民地にした。 イングランド東部の都市リンカーンの郊外では、バイキングの冬の野営地跡の発掘が進行中だ。3000~4000人を収容で きるほど大規模なもので、戦士以外にも、戦利品の貴金属を溶かす鍛冶職人、交易を行う商人、女性や子どもがいたこと を示す遺物が出土している。 バイキングの世界では女性が男性たちを率いて戦うこともあったようだ。ある有名な初期のアイルランドの文献は、「赤い娘」 と呼ばれる赤毛の女性が船団を率いて10世紀にアイルランドにやって来たと伝えている。そこでスウェーデンのストックホル ム大学の生物考古学者アンナ・シェルシュトレームは最近、バイキング時代に交易の拠点だったビルカ遺跡で出土した人骨 の再調査に乗り出した。この骨の傍らには副葬品として殺傷力の高い武器が埋められていたため、何十年もの間、位の高 い男性戦士の墓と見なされてきた。だが、シェルシュトレームは骨盤と下顎の特徴から、これを女性の骨と鑑定した。 この女性は多くの戦士の尊敬を集めていたようだ。「膝の上にゲームの駒がありました」と、発掘に携わった別の考古学者 は言う。「それは彼女が戦術を練っていたこと、つまりはリーダーだったことを示唆しています」 |
以下、「生と死の北欧神話」水野知昭・著より抜粋引用 ![]() 以下、本書より抜粋引用 ![]() 彼らの子孫によって伝えられ、古アイスランド語で書かれている。 ![]() ![]() いる。ともかく、ギュルヴィ王すなわちガングレリは、こうして徹頭徹尾、「幻惑(または眩惑)の魔術」にかけられた まま、かずかずの問いを投げかけてゆき、三人の相手から解答を受け取ってゆくという体裁をとっている。その 問答のなかでギュルヴィは、原初の渾沌から宇宙創成にいたるまでのプロセス、そして世界を支配した神々など、 さまざまな話を聞き出している。その語りのなかには、人間の創成、神界の構成、侏儒(こびと)族の発生、世界樹 と運命(ウルズ)の泉、妖精族の特徴、オージンを主宰神とする神々の特性、ロキの一族、神界を中心に発生した 銘記すべき出来事、あるいはソール神とロキの旅、ミズガルズ蛇を釣り上げる話、そして、バルドル殺害の事件 など、その他もろもろの神話的情報がふくまれている。最後にラグナロクと称する「神々の滅びゆく定め」と世界の 没落、そして世界の新生にいたるまでの語りを聞かされるという構成である。 古代の叡智ともいうべき神話が、ここではひとりの世俗的な王の幻術体験という「枠組み」の内部に封入されて いる。いわば、巨大な一幅の絵画の「額縁」のなかにはめ込まれたものは、神話的な物語の全体像を示唆しな がらも、実はその一部抜粋でしかないのである。このような構成は、「神話作者」スノッリ・ストゥルルソンにとって、 資料を取捨選択する上できわめて好都合な方式であったと言えるだろう。むろん、その「額縁」の内側に収まり きらなかったものは廃棄処分にされた。もし、ほかの書物(写本)に書記化されることがなければ、切り捨てられた 断片は、永遠に闇のなかに葬られたことになる。 |
![]() Baldr - Wikipedia, the free encyclopedia ![]() 以下、本書「生と死の北欧神話」より引用 チェスゲームとバルドル虐殺のゲーム ![]() イザヴォッルという野原に邂逅し、祭壇と神域を築いた。そして「鍛冶場を築き、財宝を鍛え上げ、金鋏(やっとこ) を造り、道具をかずいかず仕上げた」という。神々といえでも、かかる労働のあとには休息または「気晴らし」が 必要だ。そこでつぎのような詩節が続く。 彼らは聖なる草地(トゥーン)にて盤戯に打ち興じた。 ・・・・たのしみ熱中した・・・・ 彼らにとり、黄金製のものに 不足することはなかった。 おそろしく頑強な 三人の巨人の娘たちが、 ヨトゥンヘイム(巨人の国)から やって来るまでは。 (「巫女の予言」8) アースラ・ドロンケの注解によれば、神々のチェス遊びは、「もろもろの出来事を遠隔操作すること」を意味して おり、この場合、「天体の運行によって、世界の栄えある運命を維持するための儀礼的なゲーム」であるとされる。 古北欧の多くの埋葬地からサイコロとチェス盤や駒が並置されて出土している。この事実に着目したドロンケは、 さらにまた、チェスとサイコロ投げについて、「世界の運命的な出来事にひそむ、いわば偶然性の要素を模倣的に 再演する」遊戯であるから、相互に連想を惹き起こしたのだろうと推察している。よく言われることだが、西洋チェス と東洋の将棋が同じ起源から発しているとされる。中国の将棋についてドロンケが与えたつぎのような説明はきわ めて興味深い。 「そのゲームの戦闘的な要素は、ト占より発達したものであろう。中国人は、宇宙に遍満し絶えまなく対立・競合 する陰と陽の諸力の間に、均衡が存在することを(ゲームを通じて)確認しようと願うのだ」 思うに、宇宙創成の大事業がなされて間もないとき、アースの神々があえて「聖なる草地」(トゥーン)にてチェス・ ゲームに熱中したのは、きたるべき巨人族との闘争の結末において、またはその「運命的な結末」についての占い を執行していることを象徴しているのではないだろうか。最近刊行されたレジス・ボワイエの訳著によれば、トゥーン について、「囲われた不可侵の牧草地」と定義されている。ヴァイキング時代には、農場の「母屋の入り口前方に 広がり、馬、牛、あるいはとくに冬至の祝祭(ヨール)に犠牲として捧げられた豚などの家畜を飼育した」とされる。 このトゥーンがドイツ語「囲い、柵」や英語「町」(古義は「囲われた村落」)と同系であることはよく知られている。 「黄金製のものに不足することがない」と記された、まさに黄金時代において、神々は盤戯に熱中していた。それに 先立ち、彼らは、すでに「祭壇と神域」(七節)を築いていたのであるから、その神聖なる場所にて犠牲祭をも執行 したのだろう。しかし、「おそろしく頑強な、三人の巨人の娘たち」が、「不可侵の牧草地」(トゥーン)に侵入してきた とき、原古の楽園時代はまさに終焉を告げることになった、と読める。 さて、運命的に必ず発生するというラグラナロクの直前に、神々がこぞってバルドル虐殺・攻撃のゲームに熱狂 している。この光景が、天地創世の直後に、チェス・ゲームに打ち興じた神々の原風景と相関を成すことは明らか である。バルドルを真ん中にして「神々が囲みなした輪」(マン・フリング)は、チェス・ゲーム場としての「囲われた 草地」(トゥーン)に照応している。「巨人」ファールバウティの息子なるロキが「死界」から持ち来たった宿り木をホズ に手渡し、彼らが「集団の輪」に加わったとき、その「聖なる囲い」は打ち破られた。異人ロキと「盲目」ゆえに除外 者(アウトサイダー)であったホズの協同。それが成った瞬間に、神々にとって「悲惨事」(オーハップ)が発生した のだ。 |
以下、本書「生と死の北欧神話」より抜粋引用 バルドルの再来と世界の新生 ![]() 失敗してしまった。ラグナロクにおいて、神々も巨人族も、魔物たちもことごとく滅び去った。こうして全世界が崩壊 したまま、北欧神話の語りが終焉を告げれば、まさに暗澹たる思いに襲われるところだが、時を経て、海の中より ふたたび、「とこしえに緑なす大地が浮かびくる」とされる。そして不思議にもバルドルは、自分を殺したホズととも に、この世によみがえってくる、と歌われている。(「巫女の予言」59~62)。 かの女(巫女)は見る、 海中よりふたたび とこしえに緑なす 大地が浮かびくるを。 滝はたぎり落ち、 山に棲まう、 鷲が上空を飛び、 魚を狙う。 アースたちは、 イザヴォッルに邂逅し、 そして力猛き 大地の帯(ミズガルズ蛇)のことを語らう。 そこで思い出されるのは、 畏怖すべき運命的な出来事、 そしてフィムブル・テュール(偉大なる神オージン)の 古き秘蹟(ルーン)のことども。 そこでふたたび 草むらのなかに、 不可思議な 黄金のチェス駒が見い出されよう、 それらは過ぎし昔に 神の族の持てしもの。 種まかずとも 穀物は育つだろう・・・・ ありとあらゆる災厄が吉に転じよう、 バルドルは来たらん。 彼らホズとバルドルは、 戦士の神々の聖域なる フロフトの勝利の地に住む。 おのおの方、さらに知るや、それとも如何に? 先述したように、バルドルの落命が引き金となって、ラグナロクにおける「大いなる殺戮(アヴタカ)」と「喪失」 (ミッサ)が生じることについては、父神オージンが予知していた。いわば、このような大量の犠牲をもってはじめて、 「悲嘆・哀悼の情」が世界にみちあふれ、ヘルが提示したような、バルドル再生の条件が整ったと言える。 「魚を狙う」鷲の描写は、常態への復帰を意味しているのだろうか。それとも、「知恵と予言」のシンボルとしての 蜜酒を巨人から盗み出したとき、オージンが鷲に変身したように、新しき英知をつかさどる神の存在を示唆して いるのだろうか。 アースたぎが「イザヴォッルに邂逅」するとき、それは天地創成した神々の所作(「巫女の予言」7)を「ラグナロクを 生きのびた者たち」が模倣することを意味している。彼らは、ミズガルズ蛇との激闘、そして「畏怖すべき運命的な 出来事」のかずかずを思い起こすとされる。当然その追憶のなかには、バルドル殺害という不可避的な一大事も ふくまれているにちがいない。あたかも、往昔の日々にまつわる彼らの記憶が、神話的な時間を反転させるかの ようである。 フィムブル・テュール(「偉大なる神」)と称されたオージンが駆使したルーンの秘儀も、いまや遠い昔のことのように 思える。そのとき、草むらの中から、「黄金のチェス駒」が見い出されるというのは、単なる偶然ではありえない。この 「古言」(ふること)を吟じ、悠遠なる過去を「幻視」する巫女のまなざしには、天地創成の大業をなした神々が、トゥー ンの野原で盤戯に打ち興じた(8節)、あの黄金時代の記憶がまざまざとよみがえってきているのだろう。 バルドルとホズがかつての敵対関係を解消して、フロフトの地に平和に住むとされる。フロフトは「呪言・託宣の神」 の意で、オージンの別名である。バルドルの冥界下降とその蘇生は、「種まかずとも穀物は育つだろう」と歌われて いるように、大地に豊穣力がよみがえることを象徴している。バルドルと、その仇敵であったホズの蘇生、それは 積年の敵意と不和の解消を象徴し、まさに多くの犠牲を払うことによって、「平和と豊穣」の時代が再来することの 予兆となっている。グッルヴェイグをめぐる「この世で最初の激闘」と彼女の「虐殺と再生」の秘蹟が、ヴァンとアース 両神族の「和平」を導いた話と一脈通ずるところがある。 「ありとある災厄が吉に転じよう、バルドルは来たらん」という予言は、「バルドル殺し」の事件がひとつの「畏怖すべ き運命的な出来事」として繰り返して生じうるが、その惨劇を経験することによって、世界が更新され、バルドルは 再来するだろう、という、民の期待と祈願が存在していたことを示している。これまでに卑見を提示してきたように、 バルドルは豊穣と幸をもたらす「北欧のマレビト」であると定義できる。 こうしてラグナロクの試練をくぐりぬけて、何人かの者たちが生き残った。ヴィーザルとヴァーリ、そしてソール神の 息子なるモージとマグニたちだ。それぞれ「勇武」と「強力」を意味し、まさに次代を担う若き勇者の登場を物語って いる。また、とある森の中で朝露で命をつなぐ者がいて、彼らから新たに人類が発するとされる。ちょうど、ユミル 殺害のあとに発生した大洪水を生き残った巨人がいたのと同じように。まさに、すべてのものが滅んだ後の 「夜明け」の記述であり、大いなる死のあとに生の鼓動がはじまる。と同時に、円環的な神話の語りがここに完結 をみることになる。 ![]() ![]() Baldr's death by SceithAilm on DeviantArt |
![]() (大きな画像) |
ヴァイキング - Wikipedia より以下、抜粋引用。 ヴァイキング(英: Viking、典: Vikingar、独: Wikinger)とは、ヴァイキング時代(Viking Age、800年 - 1050年)と呼ばれる 約250年間に西ヨーロッパ沿海部を侵略したスカンディナヴィア、バルト海沿岸地域の武装船団(海賊)を指す言葉。 後の研究の進展により「その時代にスカンディナヴィア半島、バルト海沿岸に住んでいた人々全体」を指す言葉に 変容した。そういった観点からは、ノルマン人とも呼ばれる。中世ヨーロッパの歴史に大きな影響を残した。西洋生活 様式と思想は、個人主義がヴァイキングのイデオロギーに影響を受ける。ヴァイキングは海賊・交易・植民を繰り返す 略奪経済を生業としていたのではなく、ノルウェーの考古学者であるヘイエルダールが述べたように、故地において は農民であり漁民であった。 また、ヴァイキングたちの収益の大部分が交易によるものだったと言われている。この事実から、ヴァイキングたち にとっても航海の主たる目的は交易であり、略奪の方がむしろ例外的なものだったと考えられる。金になるブリテン 諸島、イベリア半島、イタリア半島、バルカン半島、ヨーロッパロシア、スカンディナヴィア半島、北アフリカ、西アジアと の交易路。例えばヴァリャーグからギリシャへの道でコンスタンティノープルとの貿易、ヴァイキングの通商路である。 どうして彼等が域外へと進出したのかについては下記のような学説がある。 ◎キリスト教と宗教的対立 ヴァイキング時代の始まりとされるリンディスファーンの蹂躙は、カール大帝によるザクセン戦争、すなわちキリスト 教徒による異教徒に対する戦争と時期を同じくする。歴史家のRudolf SimekとBruno Dumezilはヴァイキングによる 攻撃は同社会におけるキリスト教の広まりに対する反撃ではないかと位置付けている。Rudolf Simek教授は“初期 のヴァイキングの活動がカール大帝の統治時代と時を同じくするのは偶然ではない”と分析する。カール大帝は キリスト教を掲げ、侵攻と拡大を繰り返しており、スカンディナビアにおけるその脅威は想像できる。また、キリスト 教の浸透はスカンディナヴィアにおいて問題化していてノルウェーではそれが原因で1世紀に渡り深刻な対立が 生じていた。通商・貿易面では、スカンディナヴィア人はキリスト教徒による不平等な条件の押しつけで苦しんでいた ことが判明している。名誉を重んじ、名誉が汚された場合は近隣を襲撃することを厭わない文化において、上記の ような原因で外国を襲撃することは考えられる。 ◎技術的優位性からの富を求めた侵略 ヴァイキングは通商・貿易を業としていた民族である。そのため、ヴァイキングは中世ヨーロッパが未だ暗黒時代と される頃から、東アジア・中東とも交流を行い、航海術だけではなく、地理的な知識・工業的な技術・軍事的な技術 も周辺のヨーロッパ諸国を凌駕するようになった。その結果、富を求め近隣諸国を侵略していったとされるもので ある。 ◎その他の説 ○人口の過剰を原因とする説がある。寒冷な気候のため土地の生産性はきわめて低く、食料不足が生じたと される。山がちのノルウェーでは狭小なフィヨルドに平地は少なく、海上に乗り出すしかなく、デンマークでは平坦 地はあったが、土地自体が狭かった。スウェーデンは広い平坦地が広がっていたが、集村を形成できないほど 土地は貧しく、北はツンドラ地帯だった。このため豊かな北欧域外への略奪、交易、移住が活発になったという 仮説である。しかし、生産性が低く、土地が貧しいのなら、出生率が上がるとは考えにくく、今では否定的に捉え られている。 ○人口過剰説として、中世の温暖期も原因とされることがある。温暖化により北欧の土地の生産性が上がったが、 出生率がそれを上回って上昇したため、域外へ進出することを招いたという説である。 ○大陸ヨーロッパでは民族大移動の真っ只中であり、弱体化したヨーロッパに付け入ったという説もある。 ○能力を理由とする説もある。ヴァイキングの航海技術が卓抜だったため(後述)、他の民族は対抗できなかった というものである。 |
北欧神話とサガの世界への招待 バイキングの生活と神話 より以下、抜粋引用。 北欧の特徴 8世紀から12世紀にスカンジナビア地方に住んでいた民族をバイキングという。北ヨーロッパではヴィーキング、英語では バイキングと呼ばれている。バイキングの言葉の由来は、まだはっきりと分かっていない。彼らの故郷である北ヨーロッパは、 現在はノルウェー、スウェーデン、デンマークの3つに別れている。北欧はフィヨルドと無数の島々がたくさんある。このような 環境では、船が不可欠である。造船技術が発達したのも、この地形のおかげである。北欧の地理的特徴を列挙すると以下 のようになる。 1. オーロラが見える。 2. 白夜がある。(夏は昼が長くて、冬は夜が長い。) 3. 寒冷な気候。(作物は育ちにくい。) 4. フィヨルドや無数の島々がある。 これらの地理的特徴はバイキングの生活や航海術、歴史に影響したことは言うまでもない。 寒冷な気候は、彼らの歴史に 影響したようである。肥沃な大地を求めて、大西洋の島々へ侵略の手を伸ばした。 彼らの活動は多種にわたるが、その 活動範囲の広いことに驚く。例を挙げるとイングランドやアイルランド、ロシア、ローマ付近、グリーンランド、北アメリカなど が彼らの活動範囲であった。北アメリカは1001年、レイブ・エリクスソンというバイキングがカナダのニューファウンドランドに 上陸した。コロンブスがアメリカを発見する(1492年)より、500年ほど昔の話である。 絶対的な統治者を持たなかったのが、 バイキングの歴史の特徴である。たしかに北欧三国の基盤になった土地に、それぞれ王はいた。しかしスカンジナビア全部 を統一した帝王は現れなかった。 しかし11世紀はじめ、バイキングの時代は終わりを告げる。ノルウェー王ハラルド・ハルドラーダは、イングランド征服を 行ったが失敗した。同年、植民都市であったへーデビー(現在のドイツ)もポーランドからの部族によって壊滅した。14世紀頃 に至っては、形勢がすっかり逆転される。西欧諸国の経済力や軍事力には、適わなくなった。 バイキングの生活 バイキングの階層は大きく分けて三つある。領主,族長(上流階級)、農民,職人(中流階級)、奴隷(下層階級)の三つで あった。農民や職人は、ボンデ(自由人)とも呼ばれ、武器の所有権や参政権もあった。奴隷も働き次第によっては自由民 に昇格する事が出来た。 バイキングの社会では女性の権利がしっかりと確立されていた。主婦は家の中では主役で、家を守っていた。男達は、海に 出掛けて中々もどらない事があり、このときに活躍するのが主婦であった。彼女たちは家の中のあらゆる鍵を持っていて、 家を守っていた。子供は家の宝であったが、老人の扱いは非常に冷たい。過酷な環境で行き続けることは簡単ではない。 人を助けられないようなものは生きる資格はないとされた。真っ先に犠牲になるのは老人であった。労働源である若者を 死なせるよりは、老人が死んだほうがマシだという思想がバイキングにはあったと思う。 バイキングはロングハウスという家屋に住んでいたらしい。いくつかの部屋に分割されていて、中央の広間には炉があった。 これが唯一の光源であり、暖房であった。中にはサウナ風呂の原型のような蒸し風呂の部屋もあった。ロングハウスは丸太 で構成されていて、屋根は芝土でふいてある。広間の両側には、腰をかけるくらいの高さの段があった。昼間は椅子になり、 夜はベッドになった。衣服は羊毛、布団は狼の毛皮を使っていたらしい。 宴会の日になると、その家の主婦は召使いにテーブルを整えさせ、床には麦わらを広げる。ご馳走はビールはもちろんの こと、肉,魚,ハム,ソーセージなどが用意された。バイキングの酒杯は角の杯であった。鹿の角がメインであったらしい。この 酒杯は先端がとがっていて、酒を入れると下に置けなくなる。(重心が偏ってしまうから)注がれた酒は「スコール」という 掛け声と共に、一気飲みしなければならなかった。つまり逃げという言葉は許されないのである。 バイキングの葬式について話すと、死体といけにえ、副葬品(死んだ人にとって大切な宝物など。剣、首飾りとか。)を船に 乗せて、火をつけて海に出した。この方法は、裕福な家系の人が行った方法である。 北欧神話でもバルドルが死んだとき、 このような方法で葬式を行った。一般人は、船の形を象った墓に、死体や埋葬品を埋めていた。このような墓を「船墓」と 呼ぶ。 船乗りたちが海に出るのは夏の間だけであった。冬が過ぎ、4月になると略奪遠征成功の儀式を行う。儀式には、彼らの 神々に犠牲をささげる習慣があった。バイキングの神といえば北欧神話で登場するオーディンやトール、フレイ、フレイヤ、 バルドル、ロキなどである。彼らは特にトールを信仰していたらしい。北欧の聖所であるウプサラの神殿には三人の神が 祭られていた。中央にトール、両脇にオーディンとフレイが祭られている。バイキングにとって重要な神はトールであること が読み取れる。北欧神話の神々にはそれぞれ神官が任命されていて、彼らの仲介によって犠牲をささげる。その犠牲は、 数種類の動物で人間も含まれる。これを九体殺して、神殿近くの樫の木に吊るす。犠牲の血によって、神と交信するので ある。非常に野蛮な風習であるが、彼らは自分の神々の物語や詩を尊重している芸術的な一面もあったと思う。北欧神話 が今でも生きているのは、彼らの芸術性や信仰が高かったことを表しているのではないか。 |