「ともだちになったフランシスコとオオカミ」

ロベルタ・グラッツァーニ・文 パトリツィア・コンテ・絵

わきた・あきこ・訳 女子パウロ会







「聖フランシスコの小さき花」にも収められている

有名な逸話を絵本にしたものだが、暖かさを感じる

挿絵が素晴らしい。この絵本には「聖フランシスコ

がグッビオの町を荒いから救ったこと」以外に、

「フランシスコがきょうだいとよんだ、動物たち」や

「ともだちとあそぼう オオカミさん、オオカミさん、

なにしているの」という遊びも紹介している。

(K.K)


 




どんな生きものも 大きいのも、小さいのも、みんな、

かみさががおつくりになったもの。だから、フランシスコ

は、すべての生きものをだいじに、きょうだいとよんで、

やさしくあつかったのです。むかし、イタリアの小さな町

で、ほんとうにあったお話。

(本書より引用)



ずっとむかしの ある冬のこと、イタリアのグッビオと

いう町で、ほんとうにあった、おそろしいオオカミと、と

てもやさしいフランシスコのものがたり。このお話は、

せかいじゅうでよく知られているけれど、日本ではどう

かな?

(本書 はじめに より引用)


 
 


おとなのかたへ (本書より引用)

アシジのフランシスコ



フランシスコは、イタリア中部アシジの町で、1181年、お金持ちの織物商の家に生まれま

した。明るい性格で、お金はあるし、友だちもおおぜいいて、青年のころは、ゆかいに遊

びくらすのが好きでした。すてきな騎士になることを夢見て、アシジと隣の町とに戦争が

はじまったとき、フランシスコもりっぱな騎士の装いで、いさましく従軍しました。けれども、

ほりょになったり、病気になったりして苦しんでいるとき、夢の中でキリストに出会いまし

た。キリストは、「くずれそうなわたしの家を建て直してほしい」といわれたです。そのころ、

キリスト者どうしで、戦争をしたり、ぜいたくをもとめたり、キリストを信じる者にふさわしく

ないことが、教会のなかにもたくさんあったのです。フランシスコはすべてを捨てて、キリ

ストのように生きようと決心しました。生まれかわったようなフランシスコは、父から親子

の縁を切られたり、町の人びとから笑われたりしながら、ただただ、キリストのようにまず

しく、けんそんに、神さまからつくられたすべてのもの、人も生きものも草花もすべてを愛

しながら、生活しました。やがて、男も女も、フランシスコのようにキリストに従いたいと思

う人たちがつづいて、なかまとなり、男性の「小さき兄弟会」(今のフランシスコ会)と女性

の「クララ会」となっています。フランシスコがすべてをおつくりになった神さまを讃美し感

謝してうたった「太陽のうた」は、今も世界じゅうで愛され、となえられています。





2012年7月27日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した記事です。







原罪の神秘



キリスト教の原罪、先住民の精神文化を知るようになってから、この原罪の意味するところが

何か考えるようになってきた。



世界の先住民族にとって生は「喜びと感謝」であり、そこにキリスト教で言う罪の意識が入る

余地などない。



ただ、新約聖書に書かれてある2000年前の最初の殉教者、聖ステファノの腐敗していない

遺体、聖フランシスコと共に生きた聖クララの腐敗を免れている遺体を目の前にして、彼ら

の魂は何かに守られていると感じてならなかった。



宇宙、そして私たちが生きているこの世界は、未だ科学的に解明できない強大で神秘な力

に満ち溢れているのだろう。



その神秘の力は、光にも、そして闇にもなる特別な力として、宇宙に私たちの身近に横た

わっているのかも知れない。



世界最古の宗教と言われるシャーマニズムとその技法、私が感銘を受けたアマゾンのシャ

ーマン、パブロ・アマリンゴ(NHKでも詳しく紹介された)も光と闇の二つの力について言及し

ている。



世界中のシャーマンの技法の中で一例を上げれば、骨折した部分を一瞬にして分子化した

のちに再結晶させ治癒する光の技法があれば、病気や死に至らせる闇の技法もある。



これらの事象を踏まえて考えるとき、その神秘の力が遥か太古の時代にどのような形で人類

と接触してきたのか、そのことに想いを巡らすこともあるが、私の力の及ぶところではないし、

原罪との関わりもわからない。



将来、新たな遺跡発見や考古学・生物学などの各分野の科学的探究が進むことによって、

ミトコンドリア・イブを祖先とする私たち現生人類、そしてそれより先立って誕生した旧人

言われる人たちの精神文化の輪郭は見えてくるのだろう。



しかし私たちは、人類・宗教の歴史その如何にかかわらず、今を生きている。



原罪が何であれ、神秘の力が何であれ、人間に限らず他の生命もこの一瞬・一瞬を生きて

いる。



前にも同じ投稿をしたが、このことだけは宇宙誕生以来の不変の真実であり、これからも

それは変わらないのだと強く思う。



最後にアッシジの聖フランシスコが好きだった言葉を紹介しようと思います。尚、写真は

聖フランシスコの遺体の一部で大切に保存しているものです。



私の文章で不快に思われた方、お許しください。



☆☆☆☆



神よ、わたしをあなたの平和の使いにしてください。

憎しみのあるところに、愛をもたらすことができますように    

いさかいのあるところに、赦しを

分裂のあるところに、一致を

迷いのあるところに、信仰を

誤りのあるところに、真理を

絶望のあるところに、希望を

悲しみのあるところに、よろこびを

闇のあるところに、光を

もたらすことができますように、

助け、導いてください。



神よ、わたしに

慰められることよりも、慰めることを

理解されることよりも、理解することを

愛されることよりも、愛することを

望ませてください。



自分を捨てて初めて

自分を見出し

赦してこそゆるされ

死ぬことによってのみ

永遠の生命によみがえることを

深く悟らせてください。

☆☆☆☆




(K.K)









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