「最初の教え ネイティブ・アメリカンの知恵と祈りの言葉」

スタン・パディラ 編・画 北山耕平 訳・構成

マーブルトロン より

北山耕平さんのホームページ「Native Heart」






ツァ・ラァ・ギィ(チェロキー)文化継承センターが推薦するスタン・パディラ

の文献です。この文献は「自然の教科書」「聖なる言の葉」を一つにまとめ

たものです。著者スタン・パディラはインディアンの出身のアーティストであり

教育者でインディアンの若者の教育に関わってきました。また人権問題活動

家としても積極的に行動しています。

(K.K)


 




本書・帯文より引用



すべてのひとびとの幸福を求めて、

その目をこらし耳をすませなさい。

今だけをしか見ないのではなく、

これからの世代のことを、いつも

視界に入れるように心がけなさい。




アメリカ・インディアンの自然観から学ぶ、賢く生きるための知恵。

美しい言葉で綴られた魂の言葉たち。彼らの叡智を学ぶ基本の書。




チェロキー国歴史協会推薦

ツァ・ラァ・ギィ(チェロキー)文化継承センターはスタン・パディラの本を称えます。

本書を手にとって真面目にかつ集中して読んだ者は誰でも、なにかが変わってしまったことに

気がつく。とりわけ、10代になったばかりで、伝統的であれ、非伝統的であれ、長老からの知恵

をいかなる形でも必要としている若人だと、なおさらそう感じるだろう。柔らかくて、かつ物静か

な知恵をそのまま写しだしている「柔らかくて、物静かな本」である。

(本書より引用)




 
 

本書 まえがき より引用
スタン・パディラ



はるか昔から、ネイティブ・アメリカンの文化のまわりを、一種不思議なオーラのようなものが、

すっととりまいています。その知識は、世代から世代へ、父親から息子へ、母親から娘へと、

伝統的に口頭で伝承されてきました。太古の知恵は、伝説や、歌や、象徴のなかに、さながら

暗号のごとく閉じこめられ、一族の偉大な歴史や、哲学や、生き方は、エルダー(長老)たちの

頭と心のなかにたくわえられてきたのです。未来の世代に備え、過去の記憶を常に耕し、今に

それを生かして、育てて、教えつづけるための最大の配慮が、彼らによって払われてきました。



しかしヨーロッパ人のアメリカ大陸への到来を契機として、ネイティブ・アメリカンの生き方に、

決定的な変化がもたらされます。今日的な意味でわれわれが知っているような「教育」が導入

された結果、伝統的な知識の伝達方法の組織的な破壊がはじまったからです。とはいえ今日

でも、昔ながらの生き方は、なお絶えることなく編みこまれつづけています。過去と比べれば

ほんとうに細い糸ではありますけれど・・・・。それは、今なお、生きつづけているのです!



この本を作るために、わたしはエルダーたちの忠告のなかから「この地球で良い暮らしをおく

るための方法」を集め、「自然について学ぶことの本質」に取り組みました。「教育」も「知識」も、

「頭」が産む出すものなどでなく、「心」と「魂」と「知恵」から生まれてくるものだからです! もと

もとこの本は、ネイティブ・アメリカンの若者たちのために準備されたものでしたが、形をなすに

つれて、きっと他の多くの人たちにとっても、とくに「大地に根をおろした文化」から切り離されて

しまっている人たちにとっては、同じように意味あるものになるにちがいないと、思えるようにな

りました。どうかこの本を、今も風のなかに声が聞こえているエルダーたちからの贈り物として、

受けとめてください。これらの言葉を、元来の意図がそうであったように、聖なるやり方で、自ら

のものとして生きることに、最善をつくされますように。





 

弓の神官(サヤタカ) ズニ 本書より引用



われらの太陽である父が

自らの聖なる場所に入り腰をおろされた

するとわれらの夜の父たちが

おのおのの聖なる場所に

姿をあらわしてお立ちになった

清められた夜が過ぎさり

今日という日をわれらは迎える

この新しき日を

われらの父たちが

夜明けの神官たちが

おのおのの聖なる場所に

姿をあらわしてお立ちになった

われらの子よ

今日はわれらの日

まさしくこの日

白いトウモロコシの聖体を

祈りのための供物を

われらの太陽である父に

われら祈りの聖餐として捧げん

願わくは汝が道をまっとうされ

父なる太陽の道にたどりつかれんことを

汝が道をまっとうされしとき

汝の想いのなか・・・・われら生のあらんことを

願わくは汝の想いを受けとめる存在が

われらであらんことを



そのためにまさに今日という日

われらが太陽よ

すべての良きものをことごとく汝の息吹とし

その息吹を求め

しかも取り柄もなきわが肉体の奥深くに

その息吹を吸いこみ

今われは汝の息吹をふやさんとす



誰にも彼の父たちの息吹を

蔑ませてはならない

だが汝の肉体の奥深くまで

彼らの息吹を吸いこめば

父なる太陽があらわれる道のむこうまで

汝の道もたどりつくやもしれず



握りしめた手と手が

互いをしかとつかまえて

汝はおのおのの道をたどり終えるやもしれぬ

この終わりにむけて

今われは汝の息吹をふやさんとす



まことにわれらが陽の光を楽しむかぎり

われら愛とともに互いに挨拶をするやもしれず

まことにわれらが陽の光を楽しむかぎり

われらは互いのために祈るやもしれず

冬を通して 夏を通して

月々の巡りのはじめから終わりまで

われは汝のために光をもとめて祈りきたり



今まさに今日という日

われは彼らの想いをまっとうし

われらの父の儀式を絶やさぬため

サヤタカ 弓の神官よ

彼に人の姿を与えたまえ




 

最初の教え 北山耕平 本書より抜粋引用



あなたはこの地球を創った存在のことをどう考えていますか。この地球には、すべてのいのちと

母なる地球を最初に創られた存在のことを忘れない人たちがまだ残っています。その人たちは

口から耳へと伝える方法で数千年にわたって伝えてきたおはなしを完全に失ってしまったわけで

はありません。新世界に暮らすその人たちはアメリカ大陸のことを亀の島と呼んでいました。遠

い昔、すべてを創りだした存在が亀の島を訪れてそこで暮らしていた人たちに伝えた話のひとつ

に「お前たちは母なる地球の守り人になるだろう。」というものがあります。その存在はこう言われ

たそうです。



「お前たちのなかに、自然についての知恵や、あらゆるいのちのすべてを相互につなぐ働きにつ

いて、バランスをとること、調和のなかで生きる方法を伝え残しておこう。お前たちは自然の秘密

を知ることになるだろう。つらく苦しい時もくるかもしれないが、教えを守りすべてを創りだした存在

から遠く離れなければ、それが祝福になる。そしてお前たちが地球の上の他の人たちと、お前た

ちが守る秘密を共有しあわなくてはなくなる日がくるだろう。なぜならそのものたちは、それぞれに

伝えられたスピリチュアルな道をはずれて道を見失ったものたちであるから。教えを共有しあう時

は、いまここからはじまっている」



アメリカ大陸の先住民族の間で、それぞれの部族や国に残されていた「最初の教え」を共有し

確認しあおうという気運が高まってから半世紀がたとうとしています。あなたが手にしている本は、

わたしたちがこの地球で生き残っていくために知らなくてはならないとされた教えや祈りの言葉を、

自分たちがなにものかを忘れかけている自分たちが、もう一度なにものかを学ぶために集められ

たものです。



地球規模の環境危機が現実のものとなり、人間の種としての存在を含めてすべてが不確かなもの

に覆いつくされようとしている今という時代に、人びとのあいだに持続可能な確かな生き方を求める

気運が高まっています。地球の上で自然なるものとバランスを取りあいながらこれからも永続的に

心豊かな暮らしを生きていくためになにが必要なのかを、いま一度ひとりひとりが自分の頭と心と体

で試しはじめる日が来ているのです。ここに集められた教えと祈りは、今の世界がはじまってすぐ、

人間の心が自然とひとつでありまだいささかも汚れていないうちに考え方として、それぞれの言葉の

なかに蓄えられたものです。ここに集められた教えや祈りのなかを旅することは、地球における正し

い生き方の元型を学ぶことであり、自分たちのまわりからすべて失われてしまった聖なるものを回復

しはじめる旅のようなものでしょう。



伝統的な自然とのつきあい方を知ることで、先住民族として知られている前の世界の記憶を持つ人

たちが、たび重なる虐殺に直面してもなお、これまで地球と呼ばれる惑星の自然の多様性の守護者

として、常に七世代先の世代のことに思いを払うことで、なぜ今も昔と変わらないように振る舞ってき

たのかを理解され、彼らが伝統として残してくれているものの貴重さに敬意を払うことができるように

なるといいと思います。またここに集められた「最初の教え」により、人間の賢さの源が人間のなかに

あるのではなく、人間もその一部である自然のなかに、そして人間の理解を越えて存在するとてつも

ない謎のなかに息づいているものであることが理解されることを切に望みます。



この本は「自然の教科書」 「聖なる言の葉」(ともにスタン・パディラ編 北山耕平訳 マーブルトロン刊

2003年)の二冊の本を言葉の響きに浸かりたいという読者からの声に応じて、訳文にあらためて手を

加えるなどし、教えと祈りを常に一緒に持ち運べるようにとの便宜を考えて、小生の希望で合冊にして

いただいたものです。



もともとネイティブ・アメリカンの学校の副読本として編集されたもので、原書にはイラストが多用されて

いましたが、おそらく今の地球に残された最も古い教えであるいくつもの知恵の言葉の持つ力に、読者

の精神を集中してもらいたいとの願いから、今回図版を必要最小限に減らし、また今回言葉をすべて

再度見直しました。 (以下略)






APOD: 2012 May 19 - Annular Solar Eclipse

(大きな画像)



 


2012年5月24日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した記事です。



私がインディアンに関心を持った頃に、インディアンのことについて日本人の方が書いている本に出会った。

その方からは、メールを通していろいろ教えてもらったこともある。



その方はブログの中で、日食に関してインディアンのメディスン・マンから決して見てはいけないことを言われ、

世界中のシャーマン達が決して日食を見ない事例を紹介しながら、家にこもり内なるビジョンを見ることを訴

えておられた。



私は日頃から星空に関心があり、時々山にこもって星を見るのだが、日食も一つの天文現象であると浅は

かに思っていた。



確かに太陽が死んでいくことは古代の人々にとって恐怖であり、喪に服す意味で家にこもったのだろう。私

たち現代人は太陽が隠れても、直ぐに復活することを知っているため、彼ら古代の人のこの恐怖は決して

理解することは出来ないと思う。



この意味で、先のブログは私に新たな視点を与えてくれたように思う。



ただ、私自身の中で、違う見方をした古代の人もいたのではないかという疑問が湧いてきて、5月21日にそ

の思いを投稿した。



私はギリシャ神話は好きではなく、以前から古代の人が星空にどんな姿を投影してきたのか関心があった。

また自分なりに星を繋ぎあわせ星座を創ったほうが意味あることだと思っていた。



今日のことだったがアイヌの日食についての伝承に出会った。私自身まだ読んではいないが、これは『人間

達(アイヌタリ)のみた星座と伝承』末岡外美夫氏著に書かれている話だった。



アイヌの文献は何冊か読んで感じていたことではあるが、アイヌの方と神(創造主)はまるで同じ次元でもあ

るかのような親密感をもって接していながら、畏敬の心を持っている。私は彼らの世界観が大好きだった。



下にこの文献からの引用とアイヌの方が日食を歌った祈りを紹介しようと思うが、これは一つの視点であり

絶対こうでなければならないという意味ではない。



私たちは日食に対する様々な見方を受け止めなければならないのだろうと思う。



☆☆☆☆



太陽が隠れるということは、人びとにとって恐怖でした。



日食のことを次のように言いました。



チュパンコイキ(cup・ankoyki 太陽・をわれわれが叱る)
チュプ・ライ(cup・ray 太陽・が死ぬ)
チュプ・サンペ・ウェン(cup・sanpe・wen 太陽・の心臓・が病む)
トカム・シリクンネ(tokam・sirkunne, tokap・sirkunne 日(太陽)・が暗くなる)
チュプ・チルキ(cup・ciruki 太陽・が呑まれた)
トカプ・チュプ・ライ(tokap・cup・ray 日中の・太陽・が死ぬ)  
チュプ・カシ・クルカム(cup・kasi・kur・kam 太陽・の上を・魔者・がかぶさる)



日食の際の儀式を紹介します。



男性は、欠けていく太陽をめがけてノイヤ(蓬(よもぎ))で作った矢を放ちました。



女性は、身近にある器物を打ち鳴らし声を合わせて、次のように叫びました。



チュプカムイ      太陽のカムイよ
エ・ライ ナー   あなたは重態だ
ヤイヌー パー    よみがえれよー
ホーイ オーイ    ホーイ オーイ



日食は、太陽を魔者が呑み込むために起こったと考えました。その魔者を倒すために、蓬の矢が効果が

あったのです。



太陽を呑み込む魔者は、オキナ(oki・na 鯨・の化け物)、シト゜ンペ(situ・un・pe 山奥・にいる・もの 黒狐)。

オキナは、上顎(うわあご)が天空まで届き、空に浮かんでいる太陽をひと呑みにしたと伝えられています。



闘病記/定年退職後の星日記/プラネタリウム より引用



☆☆☆☆







(K.K)



 

 


2012年5月21日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した記事です。

画像省略

厚木市から見た金環日食



僕は毎日起きてすぐに太陽に祈っている。



人びとに安らぎが訪れるようにと。



今日は金環日食だった。



昔の人は急に太陽が隠されるのを見て、恐れおののいたことだろう。



でも、僕は違う人々のことも想像してみた。



インディアンホピの方たちが日食をどのように見ていたかはわからないが、

日の出と共に太陽に祈りを捧げている人々のこと。



もしこの人たちが太陽が隠され死んでいくのを見た時、こう願い叫んだかも知れない。



「太陽、生きてくれ!!!」と。



僕は肌を通してその感覚を理解しているとはとても言えない。



しかし太陽と心が通じていた民の中には、死にゆく太陽を見ながらこう願ったかも

知れない。



日々、太陽が昇ることを当たり前の出来事と受け取らず、日々感謝の心を持って

生きてきた人たち。



勿論これは僕の勝手な想像で、そのような先住民族がいたかどうかはわからない。



でも、僕は彼らのような民がいたことを、そして現代でも生きていることを信じたい。



(K.K)



 

 

2012年5月27日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した記事です。





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題・・・「お父さん、宇宙が、金環日食が、ここにもあるよ」・・・自宅近く



(K.K)



 

2012年6月4日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した記事です。





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2004年の金星の太陽面通過、太陽の右側に金星が写っています。(写真はNASAより引用)



今日の部分月食は厚い雲に覆われ見ることが出来ませんでした。



でもお陰で近くに天体観望できる開けたところを新たに開拓することが出来たので感謝です。



ところで、明後日の金星の太陽面通過ですが、上の写真は2004年6月8日の時のものです。



じゃあ明後日見逃しても数年後に見れるんだ、と思われたら大きな間違いで、次は105年先に

なってしまいます。



105年先というと、現在の赤ちゃんでも見るのは殆ど出来ず、その赤ちゃんの赤ちゃんが長生

きしてようやく見ることができるのだと思います。



私たちが明後日見る金星の太陽面通過、そして次に目にするであろう世代を想像するとき、

インディアンの言葉を思い出します。



☆☆☆☆



「私たちの生き方では、政治の決め事は、いつも七世代先の人々のことを念頭におきなが

ら行われる。



これからやってくる人々、まだ生まれていない世代の人々が、私たちよりも悪い世界で暮ら

したりすることのないように、できればもっと良い世界に生まれてこられるように心を配るの

が、私たちの仕事なのだ。



私たちが母なる大地の上を歩くときに、いつも慎重に一歩一歩進むのは、これから生まれ

てくる世代の人々が、地面の下から私たちのことを見上げているからだ。



私たちはそのことを、片時たりとも忘れない」



オレン・ライオンズ(オノンダーガ族)



「ネイティブ・アメリカン 叡智の守りびと」築地書館より



☆☆☆☆




(K.K)









アメリカ・インディアン(アメリカ先住民)に関する文献

アメリカ・インディアン(アメリカ先住民)

天空の果実


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