「どうやって空気を売るというのか?」

アメリカインディアンのスピーチ

北山耕平 訳 田口富士雄 絵 新宿書房

北山耕平さんのホームページ「Native Heart」







このページで紹介している「ブラザーイーグル・シスタースカイ」「父は空・母は

大地」と同じように、首長シアトルの有名な演説を北山氏の訳と田口氏の絵で

構成している。北山氏が訳されたものは原文に最も忠実なものであり、その短

いながらも素朴な表現は多くの人に深い感銘を与え続けるだろう。・・・・・

(K.K)


「シアトル首長の言葉」

雑記帳「魅せられたもの」1998.4/20「父は空、母は大地」を参照されたし





アメリカインディアンのスピーチ (本書より引用)


白人のチーフは 言う

ワシントンにいるビッグ・チーフが

わしらに友情の挨拶を送っている と

自分たちには敵対する意志などなく

あるのはひたすらに善意のみである と



なるほど

ありがたいことではあるのだろう

だが その見返りに彼らが望んでいるもの

それがわしらの友情などではないことも

わしらは 知っている



彼に従う人たちの数は 多い

この広い大平原を埋めつくす草のようだ

それにひきかえ

わしに従う者たちの数はどうだろう

嵐が咲きぬけたあとの大平原に

ポツンポツンと立っている

寂しそうな木々にも にている



偉大な人物で

心よき とわしも思う

白人のチーフが 今

わしらのもとに言葉を送ってよこし

わしらのこの土地を買いたい と申し出た

もし土地を売ってくれるのなら

喜んでわしらに楽な暮らしをさせてあげてもよい と



そうなると こちらとしても 考えこまざるをえない

いったい この申し出は どういうことなのか?



わしらの 土地を 買うだって?

白人は なにを買うつもりなのか と

わが一族の者たちは 聞くだろう



わしらには およそ理解できない

どうすれば 空気を 売ったり買ったりできるのか?

大地のぬくもりは 売ったり買ったりできるものなのか?

わしらには 想像することさえむずかしい



この甘い空気も

湧きあがる泉も

もともとわしらのものではないのだとしたら

どうやって それを 買うというのか?



太陽の光のなかできらめく 松のこだちの一本一本

砂浜の砂の ひとつぶひとつぶ

黒い森のかかる霧ですらも

この空間にあるなにもかも一切のものすべてが

たとえ

ブンブンという蜂の一匹一匹であろうとも

わしの一族の者たちの考えと思いのなかでは

どこまでも神聖なものとされている



幹のなかをのぼってくる樹液は

わしらレッドマンに

遠い記憶をよみがえらせる



わしらは 地球の一部なのだ

そして地球は わしらの一部でもある



よい香りの花は わしらの姉妹であり

鹿や馬や偉大な鷲は わしらの兄弟である



流れ落ちる川の流れの小さな泡の粒も

草原の花の蜜も

馬の汗 そして人の汗ですらも

すべてが ひとつのものとして 繋がっている

それが わしらの一族であり

わしらの部族であり

わしらの土地なのだ



しかるに

ワシントンにおられる偉大なるチーフが

ここに言葉を送ってよこし

わしらのこの土地を買いたい と申し出た

なんと たいへんなことを わしらは要求されているのだろう



わしらの生きる道を

白人が理解していないことは知っている



彼らにしてみれば

そこはどこにでもあるような

小さな土地のひとつかもしれない



白人は夜になるとあらわれては

必要なものを持ち去ってしまう

地球は 彼らにとって

母親でもなければ 兄弟でもなく

ただの敵にすぎない



白人はひとつの場所を征服すると

次の場所に移っていく

大地のことなど いたわりもしない

父親の墓の場所すらも わからなくなり

子供たちに伝えるべき大切なものも 忘れている



母である地球や 兄である空を

白人は まるで商品のように 取り扱う



食べても食べても

満たされることのない飽くなき飢えが

やがてこの地球を裸にして

ただ砂漠だけを あとに残す



どうにも わしらには 理解できない



わしらの道は あなた方の道とは違っている

それでもなお わしらが この土地を

売らなくてはならないのだとしたら

あなた方だって 知らなくてはならない



この空気が わしらにとって

どれほどの価値があるものなのかを

この空気が息となって伝わり

地上の一切の生命を 今日まで保ってきていることを



わしの曾祖父に最初の息吹を与えた風

わしの曾祖父がひきとった最後の風

同じその風が また わしらの子供たちにも

生命を与え続けていることを



すべてのものが ひとつに結ばれている

すべてのものは つながっている



地球に起こることは

そのまま地球の子供たちの身の上にも起こる



人間が生命という網を編んでいるのではなく

彼もまた その一本の糸にすぎない

人が その網にたいしてすることは

とりもなおさず、自分自身に向って

していることなのだ



やがて 近い将来

まるで大雨の後の川の水が

岩の裂け目を音を立てて流れ落ちるように

あなた方もじきに この土地にあふれるだろう



しかしそのとき わしと わしに従ってきた者たちは

まるで海の潮がひきょうに

いずこへともなく 姿を消す

その行く末は わしらにも 謎である



白人の夢を 知ることができるならば

その謎も とけるかもしれない



冬の長い夜に

彼らが子供たちに語って聞かせる願いや望みを

もし知ることができるのなら

彼らが いかなるヴィジョンを心に刻みこみ

なぜかくも明日に期待するのかも

わかるかもしれない


 



APOD: 2012 May 19 - Annular Solar Eclipse

(大きな画像)



 


2012年5月24日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した記事です。



私がインディアンに関心を持った頃に、インディアンのことについて日本人の方が書いている本に出会った。

その方からは、メールを通していろいろ教えてもらったこともある。



その方はブログの中で、日食に関してインディアンのメディスン・マンから決して見てはいけないことを言われ、

世界中のシャーマン達が決して日食を見ない事例を紹介しながら、家にこもり内なるビジョンを見ることを訴

えておられた。



私は日頃から星空に関心があり、時々山にこもって星を見るのだが、日食も一つの天文現象であると浅は

かに思っていた。



確かに太陽が死んでいくことは古代の人々にとって恐怖であり、喪に服す意味で家にこもったのだろう。私

たち現代人は太陽が隠れても、直ぐに復活することを知っているため、彼ら古代の人のこの恐怖は決して

理解することは出来ないと思う。



この意味で、先のブログは私に新たな視点を与えてくれたように思う。



ただ、私自身の中で、違う見方をした古代の人もいたのではないかという疑問が湧いてきて、5月21日にそ

の思いを投稿した。



私はギリシャ神話は好きではなく、以前から古代の人が星空にどんな姿を投影してきたのか関心があった。

また自分なりに星を繋ぎあわせ星座を創ったほうが意味あることだと思っていた。



今日のことだったがアイヌの日食についての伝承に出会った。私自身まだ読んではいないが、これは『人間

達(アイヌタリ)のみた星座と伝承』末岡外美夫氏著に書かれている話だった。



アイヌの文献は何冊か読んで感じていたことではあるが、アイヌの方と神(創造主)はまるで同じ次元でもあ

るかのような親密感をもって接していながら、畏敬の心を持っている。私は彼らの世界観が大好きだった。



下にこの文献からの引用とアイヌの方が日食を歌った祈りを紹介しようと思うが、これは一つの視点であり

絶対こうでなければならないという意味ではない。



私たちは日食に対する様々な見方を受け止めなければならないのだろうと思う。



☆☆☆☆



太陽が隠れるということは、人びとにとって恐怖でした。



日食のことを次のように言いました。



チュパンコイキ(cup・ankoyki 太陽・をわれわれが叱る)
チュプ・ライ(cup・ray 太陽・が死ぬ)
チュプ・サンペ・ウェン(cup・sanpe・wen 太陽・の心臓・が病む)
トカム・シリクンネ(tokam・sirkunne, tokap・sirkunne 日(太陽)・が暗くなる)
チュプ・チルキ(cup・ciruki 太陽・が呑まれた)
トカプ・チュプ・ライ(tokap・cup・ray 日中の・太陽・が死ぬ)  
チュプ・カシ・クルカム(cup・kasi・kur・kam 太陽・の上を・魔者・がかぶさる)



日食の際の儀式を紹介します。



男性は、欠けていく太陽をめがけてノイヤ(蓬(よもぎ))で作った矢を放ちました。



女性は、身近にある器物を打ち鳴らし声を合わせて、次のように叫びました。



チュプカムイ      太陽のカムイよ
エ・ライ ナー   あなたは重態だ
ヤイヌー パー    よみがえれよー
ホーイ オーイ    ホーイ オーイ



日食は、太陽を魔者が呑み込むために起こったと考えました。その魔者を倒すために、蓬の矢が効果が

あったのです。



太陽を呑み込む魔者は、オキナ(oki・na 鯨・の化け物)、シト゜ンペ(situ・un・pe 山奥・にいる・もの 黒狐)。

オキナは、上顎(うわあご)が天空まで届き、空に浮かんでいる太陽をひと呑みにしたと伝えられています。



闘病記/定年退職後の星日記/プラネタリウム より引用



☆☆☆☆







(K.K)



 

 


2012年5月21日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した記事です。

画像省略

厚木市から見た金環日食



僕は毎日起きてすぐに太陽に祈っている。



人びとに安らぎが訪れるようにと。



今日は金環日食だった。



昔の人は急に太陽が隠されるのを見て、恐れおののいたことだろう。



でも、僕は違う人々のことも想像してみた。



インディアンホピの方たちが日食をどのように見ていたかはわからないが、

日の出と共に太陽に祈りを捧げている人々のこと。



もしこの人たちが太陽が隠され死んでいくのを見た時、こう願い叫んだかも知れない。



「太陽、生きてくれ!!!」と。



僕は肌を通してその感覚を理解しているとはとても言えない。



しかし太陽と心が通じていた民の中には、死にゆく太陽を見ながらこう願ったかも

知れない。



日々、太陽が昇ることを当たり前の出来事と受け取らず、日々感謝の心を持って

生きてきた人たち。



勿論これは僕の勝手な想像で、そのような先住民族がいたかどうかはわからない。



でも、僕は彼らのような民がいたことを、そして現代でも生きていることを信じたい。



(K.K)



 

 

2012年5月27日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した記事です。





(大きな画像)



題・・・「お父さん、宇宙が、金環日食が、ここにもあるよ」・・・自宅近く



(K.K)



 

2012年6月4日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した記事です。





(大きな画像)



2004年の金星の太陽面通過、太陽の右側に金星が写っています。(写真はNASAより引用)



今日の部分月食は厚い雲に覆われ見ることが出来ませんでした。



でもお陰で近くに天体観望できる開けたところを新たに開拓することが出来たので感謝です。



ところで、明後日の金星の太陽面通過ですが、上の写真は2004年6月8日の時のものです。



じゃあ明後日見逃しても数年後に見れるんだ、と思われたら大きな間違いで、次は105年先に

なってしまいます。



105年先というと、現在の赤ちゃんでも見るのは殆ど出来ず、その赤ちゃんの赤ちゃんが長生

きしてようやく見ることができるのだと思います。



私たちが明後日見る金星の太陽面通過、そして次に目にするであろう世代を想像するとき、

インディアンの言葉を思い出します。



☆☆☆☆



「私たちの生き方では、政治の決め事は、いつも七世代先の人々のことを念頭におきなが

ら行われる。



これからやってくる人々、まだ生まれていない世代の人々が、私たちよりも悪い世界で暮ら

したりすることのないように、できればもっと良い世界に生まれてこられるように心を配るの

が、私たちの仕事なのだ。



私たちが母なる大地の上を歩くときに、いつも慎重に一歩一歩進むのは、これから生まれ

てくる世代の人々が、地面の下から私たちのことを見上げているからだ。



私たちはそのことを、片時たりとも忘れない」



オレン・ライオンズ(オノンダーガ族)



「ネイティブ・アメリカン 叡智の守りびと」築地書館より



☆☆☆☆




(K.K)









アメリカ・インディアン(アメリカ先住民)に関する文献

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