ボビー・フィッシャーの写真集 「Bobby Fischer against the World」 Harry Benson より引用


ボビー・フィッシャー(Bobby Fischer) 1943年3月9日~ 2008年1月17日

本名 Robert James Fischer(ロバート・ジェームス・フィッシャー)


ボビー・フィッシャーの写真集 「Bobby Fischer against the World」 Harry Benson より引用

1972年世界選手権中の休息日に撮られたもの


ボビー・フィッシャーの写真集 「Bobby Fischer against the World」 Harry Benson より引用

チェスとは関係ないが、フィッシャーが聴いていたラジオはソニー製で、当時革新的なデザインのものであった。





以下、「決定力を鍛える チェス世界王者に学ぶ生き方の秘訣」

ガルリ・カスパロフ著 近藤隆文訳 NHK出版 より引用



輝かしい伝説と悲しき遺産

街頭で誰かにチェスプレーヤーの名前を挙げるように頼んだら、かなりの確率でボビー・フィッシャーの

名前を耳にするだろう。1972年、インターネットとチェスエンジンが登場するよりはるか昔、チェスがまだ

純粋に人間のゲームだったころに、フィッシャーは歴史上もっとも有名なチェスプレーヤーとなった。その

チェスの才能に匹敵するのは、彼自身の物議をかもす才能のみ。それはテレビ時代における西側初の

スター棋士にとって理想的な・・・・あるいは破滅的な・・・・組み合わせだった。



ブルックリン育ちのフィッシャーは第一級の十代の天才児だった。勝利へのとてつもない決意と飽くなき

練習意欲、無類の正確さを誇る技術を併せ持っていた。その実績の多くは今後も破られることはないだ

ろう。14歳で全米チャンピオン。16歳で世界選手権の候補者。1963年の全米選手権を11-0の完璧な

成績で制覇。世界選手権の候補者大会では2試合連続で6-0と完勝。そして1972年、アイスランドの

レイキャヴィクでボリス・スパスキーを破って世界チャンピオンとなる。外部からの支援をほとんど受けな

いまま、因習を打破するフィッシャーは破竹の勢いで台頭し、1948年以降初となるソ連からの王座奪取

を実現した。



レイキャヴィクでの対戦にいたるまでの経緯と論争が、最高の舞台をつくりあげた。フィッシャーはプレー

しないらしい、いやするらしい、いや違うようだ、空港に現われた、いや現われていない・・・・などなど。

ヘンリー・キッシンジャーはわざわざ電話をかけ、愛国者としての義務を果すようフィッシャーを説得した。

遅まきながらフィッシャーがアイスランドに到着したあとも、このイベントを順調に進めるには偉大な外交

術とスパスキー側の騎士道精神が必要だった。



試合開始後も驚くべき事態がつづいた。フィッシャーは大悪手を重ね、黒番での第1局を失った。第2局

のまえには会場の状態について抗議した。フィッシャーは得意の気晴らしである。雑音が多すぎるし、

カメラも多すぎると彼は言った。やがてゲームは開始される・・・・ところがフィッシャーがいない! 彼は

出場を拒み、この局を放棄したのだ。これで0-2とリードされ、ついに対戦は中止されるかと思われた。

粘り強い交渉のおかげで対戦は続行されたものの、第三局がおこなわれたのは舞台の上ではなく、

卓球用の裏部屋。観客は有線方式のカメラを通してアイドルたちの姿を見るしかなかった。フィッシャー

はその第3局でスパスキーから初めて勝利を奪うと、そのまま優勢に試合を進め、タイトルを手に入れた。



このとき世界はフィッシャーの思いのままだった。彼は若くハンサムで、裕福であり、チェスを米国の一大

人気スポーツに仕立てあげようとしていた。資金提供の申し出やイベントへの招待が舞いこんだが、何度

かテレビ出演に応じただけで、ほとんど断った。そして、訪れた沈黙。フィッシャーはチェスをやめ、20年

にわたって本格的な試合でポーンを突くことはなくなる。1975年には、つぎの世界チャンピオン戦のルール

をめぐってFIDEと対立し、王位を剥奪された。挑戦者のカルポフが後釜に据えられ、フィッシャーは姿を

消した。




彼の所在についての噂や、いまにもふたたび現われてチェス界を制覇するのだという風説はたえず存在

した。だがボビー・フィッシャーが、50歳を目前に太ってひげを生やした姿でチェスのプレーを再開するの

は1992年を迎えてからになる。それは喜ばしくも悲しい出来事だった。ふたたび脚光を浴びたのは、フラ

ンスで半隠居生活をしていたボリス・スパスキーと、戦乱のユーゴスラビアで再戦をおこなうという数百万

ドルのオファーに引かれたためだった。チェスの腕は予想どおりさびついており、以前の輝きはほとんど

見る影もなかった。最悪だったのは、冒涜的な反ユダヤ的発言をせずにはいられない傾向を見せたこと

だ。フィッシャーの傷つきやすい心は、唯一理解できたチェスという世界を長く離れているあいだに崩壊

していた。



試合後、フィッシャーはまたも消息を絶ち、今度は2004年、日本の成田空港の収容所というさらに意外な

場所に現れた。ユーゴスラビアでの試合は国連によるユーゴ制裁措置に違反するものであり、彼は無効

になったパスポートで旅していたとして拘束されたのだ。こうしてフィッシャーはふたたび話題の人物となっ

た。そして8ヵ月後、日本政府はフィッシャーをアイスランドに送り出す。彼の最大の勝利の舞台。彼が

いまでも敬愛されている国に。



その言動や数奇な人生にかかわらず、フィッシャーは何よりチェスに対する限りない貢献で記憶されるに

値する。頂点に君臨した期間は悲劇的に短かったが、彼は現代のポール・モーフィともいえるほど、同時

代のプレーヤーのなかでぬきんでた存在だった。フィッシャーの成功と並はずれたカリスマはある世代

全体にチェスを広め、とくに米国では大きな“フィッシャー・ブーム”が起こっている。フィッシャーとスパス

キーの対戦がおこなわれた当時、9歳だった私は友達とともに1局1局を熱心に追ったものだ。彼の餌食

にあった者の大半はソ連人だったが、フィッシャーのファンはソ連でも多かった。彼のチェスが素晴らし

かったのは間違いない。だが私たちは彼の個性と独立心に敬服したのである。



 



ガルリ・カスパロフが過去に国際チェス連盟と騒動を起こし、イギリスのショートと共にチェス界を分裂さ

せたことを忘れることができません。1993年、チャンピオン・カスパロフと挑戦者・ショートは、彼らの世界

選手権を乗っ取り、彼らが作ったプロチェス協会(PCA)の元で行なうことを宣言しました。彼ら理由として、

「国際チェス連盟(FIDE)の規則では、世界選手権決勝マッチの開催地はFIDE、世界チャンピオン、挑戦

者の3者の合議で決定することとなっていた。しかし、カンポマネス(FIDE会長)はこれらの規則を破って、

開催地をマンチェスターと宣言した」からだとしていますが、確かにFIDEの官僚体制などいろいろ問題が

あったかも知れません。しかし、彼らカスパロフとショートが動いた根本動機は私利私欲であった面は否定

できないと思います。カスパロフは以前からカンポマネスに不信感をもっており、自分主導でチェス界を

引っ張っていく想いが強かったのかもしれませんが、ただ言えることは、彼が現在のチャンピオンになる

ことが出来たのは、地方・国など多くのチェス組織があってこそだと思います。会長への憎しみだけのため、

今まで自分を育ててくれた組織を分裂させてしまったカスパロフとショートの行動は批判されるべきかも

知れません。カスパロフは最近、あの行動は間違っていたと語り、その責任の多くがショートにあると主張

していますが、これもチェス界の悲しい遺産の一つです。



2013年月.30日 (K.K)

 


以下、「楽しいチェス読本」ロフリン著 より引用


複雑な局面で、攻撃強化手段を判定する際、多くは中間の着手がポイントになります。これを手品の

ように巧妙に使ったのは、アメリカのフィッシャーでしょう。彼のたくさんの試合のなかから、1つだけとり

あげてみましょう。フィッシャーが白番です。






黒の防御態勢は完全に見えるのですが、予期せぬ試合展開になりました。

1.Be4 ! Qe7

(もし 1...de4 とすれば、2.N3e4 で次に 3.Nf6) 黒の敗けです。


(中略)


1966年におけるチェス界5人のスターの1人で、急速に頭角をあらわしたアメリカのロバート・フィッシャー

に目を転じましょう。彼は1943年生まれの全米チャンピオンで、ボトビニクは彼について「アメリカチャン

ピオンは、大変な才能をもったプレーヤーである。彼は確実に、素早く、戦術のもつれを解明し、バリエー

ションを計算する。試合が漠然とした性格をあらわしたときには、まず第1にプランの問題とポジションの

判定について決定しなければならない。フィッシャーはまだその点で不十分であるのだが・・・」 そして、

「もしこの2~3年でフィッシャーがチャンピオンになれなかったときは、彼に2度とチャンスはまわってこな

いだろう」と記しています。最初の部分は討論に値するとしても、後半はほとんど的中しました。1972年に、

彼は世界チャンピオンとなったのです。



フィッシャーは15歳にして、すでに国際的巨匠として認められていました。チェス史上、他に例のないこと

です。当時の彼は、生活の趣味や思考をすべてチェスに関連づけ、夢はチェスの世界チャンピオンになる

ことでした。100年ほど前に、未公認ながらチャンピオンになったアメリカ人ポール・モーフィーのように。



当然のことですが、偶然や気まぐれで世界チャンピオンになれるものではありません。フィッシャーの最初

の成功は、国内においてでした。ある大会で12試合をやり、彼は12ポイントを獲得しました。それから国際

地区大会、ストックホルム(1962年)、パルム・デ・マヨルカ(1970年)での勝利、そして国際選手権での勝利、

ザグレブ、ブエノスアイレス、ベオグラード。1971年に世界選手権挑戦者になったときの3巨匠との試合が

彼のレコードです。タイマノフに6-0、ペトロシアンに6.5-2.5という成績でした。



彼のスタイルと型の特徴は、棋風は堂々として、指された手にはすばやく反応し、稀有の記憶力をもち、

序盤戦に長じているということです。最も重要なことは、彼の気質です。途方もないバイタリティーにあふれ

ているのです。これらの力が一体となって試合で発揮されるのです。フィッシャーの銘は「闘いは最後の一

兵まで」ということでしょう。



フィッシャーのこういった長所を無視して、たとえばラースンはこう主張したのです。「世界選手権のような

長い試合(24試合)は、スパスキーにとって有利と言わねばならない」と。たしかにスパスキーは、モスクワ

に戻ってきたときに著者に向って「最後の最後まで希望は捨てなかった。王座を死守できると思っていた

のだが」と語ってくれました。



1972年夏、レイキャビクで行なわれた試合を簡単にみてみることにしましょう。最初の10試合はスパスキー

にとってきわめて悪い状態でした。彼は戦略的な誤りと戦術的な失敗を重ねていました。心理的にもあまり

良い状態ではありませんでした。フィッシャーは対戦者と審判に対して、容認しがたい毒舌をはき、世界選手

権にふさわしい試合の雰囲気ではなかったように思われます。すべての状況が否定的な役割を果したとい

えるでしょうし、フィッシャーは後半戦での敗北を計算していたように思われます。事実、後半戦のポイントは

それほど良くはなかったのです。いずれにしろ、ソ連の名人がふつうに指せる状態ではなかったかもしれま

せん。



後半戦の11試合は6-5でフィッシャーが勝っていますが、ボトビニクの「試合におけるフィッシャーの天才的

技術」についての見解は反駁されたのです。スパスキーの11試合目の勝利と、フィッシャーの13試合の勝利

を分析すると、戦いにおける屈折の様子がわかります。私はレイキャビクの観戦者である巨匠クロギウスに

質問してみました。後半戦でフィッシャーが戦術的に特別の抑制をした様子が見られなかったか(意識的な

防衛への移行)?と。答えは、フィッシャーは後半戦では非常に疲れていたようだったし、力の限界を越えて

指していた(スパスキーが攻勢にでていった頃から)ということでした。



たしかに考えられることであり、ソ連の獅子の目覚めるのが少々遅かったということでしょう。結果を分析し

て、多くの専門家が指摘したことは、レイキャビクでの試合の準備中、スパスキーは自分の力を過信して

しまったということです。戦力向上のため、国内でのトーナメントに出場し、試合に必要なものをすべて取り

戻しておかねばならなかったにもかかわらず、彼はそれをやらなかったからです。実際のところ、ソ連の

プレーヤーで世界チャンピオンになった者のうち、ボトビニクを除いては誰も全ソ選手権で競技をしたものは

それまでいなかったのです。



新チャンピオンの、序盤の組み立て方に関する主張には、彼特有の分析的能力は感じられません。元チャ

ンピオンのスミスロフは、次のように強調しています。「たえずチェス研究に没頭しているフィッシャーは、ス

パスキー以上に下準備をしていました。以前からフィッシャーが白盤のときの第1手は常にe4であると見なさ

れており、その対応策を準備することは容易でした。しかし実際には、フィッシャーはものすごいエネルギー

とすばらしい記憶力で、種々の序盤戦のシステムを準備し、ポジション研究による卓越した技術を示したの

でした。」







Robert James Fischer vs Oscar Panno
"The Pann-handler" (game of the day Jan-08-10)
Buenos Aires 1970 · Sicilian Defense: French Variation (A04) · 1-0

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フィッシャー 全棋譜853局(1955年~1992年)

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歴史上最も若くグランドマスターを達成した記録
(2013年5月現在)
ChessBase News | Jan-Krzysztof Duda: 15-year-old gains GM title

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1999
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11
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0
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1983
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1
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10 
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1997
11 
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2
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2
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2010
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0
1990
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15 
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6
2
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7
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1994
2009
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7
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10
0
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11
14
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20
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2007
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ARM
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11
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2008
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0
22
1986
2001
25
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15
0
23
1994
2009
26
Jan-Krzysztof Duda
POL
15
0
21
1998
2013
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IND
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1
27
1987
2002
28
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USA
15
2
19
1987
2003
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IND
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2
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1997
2012
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3
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17
1991
2006
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UKR
15
3
?
1993
2008
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HUN
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1976
1991
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 Alejandro Ramirez
CRI
15
5
14
1988
2003
35
 Arkadij Naiditsch
GER
15
5
?
1985
2001
36
 Bobby Fischer
USA
15
6
1
1943
1958
-


 



チェスの歴史上、最強の人間は誰だったか、それは人の感性や棋力により答えが異なるのは当然かと

思います。現在のレーティング(強さの数値)で判断すると、必ず現在の棋士がトップに来ますが、それは

チェスのイロレーティング(Elo rating)が年に数%づつインフレを起こしているためです。ですから最も公平

な見方は、同時期に存在した多くの名人たちとの比較などでしか判断できないかも知れません。例えば時

代別にA・B・Cの名人を並べると、AとB、BとCは対戦が多く優劣の判断はできるが、AとCは対戦したこと

がない。このような場合、AとC、どちらが強いかを判断するには、Bの存在で測ることも可能です。AとBの

勝率、BとCの勝率などで、AとCの力関係を推察することができる。しかし、この比較も名人と言えども全盛

期とそうでない時期、そして相性の問題も当然あるのでやはり確定することはできないように思います。私

個人としては、モーフィーカパブランカフィッシャーがチェス史上最強かと思いますが、カスパロフに関し

ては序盤研究のプロ集団を雇っていた彼にはその資格はないと思います。そして大事なことは、たまたま

チェスに接することがなかっただけで、その素質は彼らより上という人間も人類誕生から今日まで沢山いた

ことを忘れてはいけないと思っています。


2013年1月31日 K.K






Astronomy Picture of the Day Archive APOD: 2016 January 3 - A Starry Night of Iceland

アイスランドのオーロラ


Trinity News Features より引用


Un anno senza Bobby su Bobby è leggenda より引用








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