祈りの翼


「生と死 境界を科学する」 ナショナル ジオグラフィック 2016年4月号



聖書の世界が見える 使徒たちの旅路 ナショナル ジオグラフィック 2012年3月号






アルメニア 虐殺の影」 ナショナル ジオグラフィック 2016年4月号 より抜粋引用

文=ポール・サロペック(ジャーナリスト)

写真=ジョン・スタンマイヤー


100年ほど前、当時のオスマン帝国でアルメニア人が虐殺された。死者数は諸説あるが、100万人

との見方もある。アルメニアの首都エレバンの丘には、この悲劇を伝える記念碑が立っている。




同国で「大惨事」と呼ばれる虐殺が始まった4月24日には、毎年大勢の人々が丘に登り、燃え続ける炎の前を通って

花をささげる。だが、そこからおよそ100キロ北西のトルコ領内に残るアニ遺跡のほうが、アルメニア人の苦難を伝え

る記念碑としてはふさわしいかもしれない。



現在のトルコの大半を占める東アナドリアを中心に、北はシルクロードの北側のルートに至るまで強大な力を誇った

アルメニア王国。その中世の首都だったアニは「1001の教会の町」とたたえられる人口10万人の大都市で、アルメニア

文化が花開いた地だった。



現在では街路に人影はない。大聖堂の廃墟が点在する遺跡となったアニに、私は徒歩でやって来た。アフリカを出た

人類が世界に拡散していった道筋をたどって、歩いているのだ。世界をめぐってきた私が見ても、アニほど美しく、そし

て悲しい場所はなかった。



「アルメニア人のことは一言も書かれていませんね」。旅のガイドを務めるクルド人のムラト・ヤーザルが、トルコ政府

の設置した案内板を見て驚いている。彼の言うとおりだった。案内板には、この都を建設した民族に関する記述は

ない。これは意図的なもので、アニにはアルメニア人の痕跡すらない。トルコの歴史のなかにアルメニア人は存在して

いないのだ。



「ジェノサイド」なのか?



アルメニアとトルコの対立は、世界の政治紛争のなかでも歴史が古く、しかも厄介だ。激しい憎悪は何世代を経ても

消えず、極端なナショナリズムが台頭する原因にもなっている。そんな両国の関係を象徴するのが「ジェノサイド」と

いう言葉をめぐる激しい論議だ。ジェノサイドとは、一つの国家や民族の構成員を抹消しようとする行為で、国連は

最も重大な犯罪の一つと位置づけている。だが、どの時点で何人殺されればジェノサイドになるのだろう。問題になる

のは実際の行動か、それとも計画なのか。



アルメニア側の見方はこうだ。虐殺の開始は1915年、第一次世界大戦が始まって9ヶ月後である。広大な領地と

多文化を抱える世界最強のオスマン帝国は、ドイツと手を結んでいた。帝国内でキリスト教を信仰する少数派の

アルメニア人は、忠実で信頼できる民族と見なされていたにもかかわらず、敵対するロシアに寝返った反逆者の

烙印を押されてしまう。帝国の一部の指導者は、根絶と強制移住で「アルメニア問題」を解決しようとした。



国軍やクルド人民兵がアルメニア人の男性を銃殺し、女性は集団でレイプされ、村や町は略奪に遭った。川や泉は

死体で埋まったという。生き残った女性や子どもは兵士に脅され、シリアの砂漠へと追いやられた(現在のアルメニア

国内に住むアルメニア人の数が300万人であるのに対し、国外で暮らすアルメニア人は800万〜1000万人にも及ぶ)。

オスマン帝国内に約200万人いたアルメニア人は、50万人以下に減った。これを近代世界で最初のジェノサイドだった

とするのが、多くの歴史学者の見解だ。



当時オスマン帝国に駐在する米国大使だったヘンリー・モーゲンソー・シニアは、「人類の歴史のなかで、これほど

忌まわしい出来事はなかった」と記している。



だがトルコ政府は、こうした記述を完全に否定し、「ジェノサイドと呼ばれる事態」を次のように説明する。



当時は激しい内乱が続き、歴史的に見てもきわめて異常な状況だった。アルメニア人に多くの犠牲者が出たことは

事実だが、世界大戦でオスマン帝国が分断され、ギリシャ人、シリア系キリスト教徒、ユダヤ人など国内にいた集団、

さらにはトルコ人も同じ憂き目に遭っている。組織的な抹消計画などなかったし、アルメニア人の死者数は誇張されて

いて、実際は60万人に満たない。そもそもアルメニア人の多くは反逆者で、侵攻してきたロシア軍に加わっていた。



トルコ国内で、この公式見解に反論することはとても危険だ。告発され、重罪に問われることこそ少なくなったが、

「ジェノサイド」という言葉が国家を侮辱し、社会を扇動・徴発するという裁判官の見解は揺るがない。ノーベル賞を

受賞したトルコ人作家オルハン・パムクのような著名人でさえ、アルメニア人の惨禍について公の場で発言しただけ

で、トルコの国民と国家を侮辱した罪で起訴される騒ぎになったほどだ。



2014年、当時のトルコの首相を務めていたレジェップ・タイイップ・エルドアンはこう発言している。「古来よりかけがえ

のない土地に暮らし、同じような風俗習慣を共有する民族同士が、分別のある態度で過去について対話し、失った

ものをともに記憶していくことは可能であると信じています」



「ジェノサイド」という言葉には特別な力がある。それはいったい何なのか?



国外に離散したアルメニア人は、オスマン帝国で起きた出来事をジェノサイドと呼ぶように各国政府に働きかけて

きた。



トルコ東部にあるクルド人の町デイヤルバクルで、アルメニア教会が再建されたと知り、現地を訪れたときのことだ。

教会の再建は両国が見せたささやかな和解の印である。住民に話を聞いていると、そこに一人の男がやって来た。

「ジェノサイドを認めるか?」男はいきなり詰問してきた。彼はアルメニア人で、興奮した様子だ。私の目をのぞき込ん

でくる。



驚いた私は、仕事中なので、と言った。



「そんなことはどうでもいい。あんたはジェノサイドを認めるのか、どうなのか?」



男は同じ質問を何度も繰り返す。歴史から目をそらすな・・・彼はそう言いたいのだ。





トルコ東部では、アルメニア人農家の廃墟をよく見かけた。屋根が崩れた家から木が生えている。アルメニア教会は

モスクに転用されている。木陰が心地よいクルミ材は、死の行進をさせられたアルメニア人が植えたものだ。



クルド人が住むタシュカレ村で、白髪のサレー・エムレ村長に話を聞いた。「ここの村人はアルメニア人と戦い、たくさん

の人間が死にました。あれは過ちだったと思います。ここはアルメニア人の土地だったんです」



イスラム教を信仰するクルド人は、トルコ東部の血なまぐさい歴史のなかで奇妙な立場にある。オスマン帝国は国境

警備の憲兵隊として、手を汚す仕事を引き受けていた。現在のトルコでは少数派となって逆境に立たされ、政治的な

権利を求めている。同じ犠牲者という立場から、国を追われたアルメニア人に共感するクルド人は多い。



ジェノサイドが終わったと言えるのは、いつだろう。死者の一人ひとりの顔が、記憶の隙間からこぼれ落ちたときなのか。

打ち捨てられた最後の村に新しい名前がつき、別の言語を話す住民が暮らし始めたときなのか。それとも、加害者が

ようやく改悛の情を示したときなのか。



私はガイドと一緒に、北へ向かって歩いた。草原ではオオカミの群れに遭遇した。彼らはいったん振り返ってこちらを

見ると、黙ってまた走りだした。東に仰ぎ見る標高5137メートルのアララト山は、雪を頂いて白く輝いていた。旧約聖書で

ノアの方舟がたどり着いたのはこの山だという。美しくそびえるこの火山は、アルメニア人にとって聖なる山だ。



アルメニア人の要求



選ばれたトラウマ・・・政治心理学者のバミク・ボルカンは、個人でも国家でも、深い悲しみがアイデンティティーの核と

なった観念や世界観をそう表現する。集団的暴力に痛めつけられた社会を一つにまとめ上げるのは、選ばれたトラウマ

だ。だが一歩間違えると、内向きのナショナリズムを助長する。トルコから小カフカス山脈を越えてジョージア(グルジア)

に入る。首都トビリシで、エレバン行きの夜行列車に乗った。その日は4月24日、ジェノサイドからちょうど100年目だった。



アルメニアの首都エレバンでは、至るところで看板を見かけた。刀やライフル、なた、輪縄の絵を組み合わせで「1915」

という数字を表した看板もあった。だがいちばん胸を打たれたのは、暴力とは無縁のワスレナグサの花だ。市内の公園

や中央分離帯に掲げられた看板やポスターには薄紫色の花が描かれ、町を彩っていた。旗やステッカー、バッジにも

この花があしらわれている。虐殺を象徴する花なのだ。「私は忘れない、そして要求する」。これがジェノサイド記念日の

スローガンである。



だが、いったい何を要求するのか?



それはアルメニア人が自らに投げかける問いでもある。過去を指針に前進するのか、過去に縛られるのか。



西部の都市ギュムリでアルメニア教会の主教を務めるミカエル・アジャパヒアンはこう語る。「今のトルコ政府に恨みは

ないし、トルコ人に対してもわだかまりはありません。ですが、傷を癒すのはトルコ側の責任です」



女性の権利拡大を求める活動家、エルビラ・メリクセティアンはこんなふうに話していた。「自分たちが何を求めている

のか、実はよくわからないのです。すべてをつらい過去に結びつけても、未来がないと思いませんか? 見通しがない

んです。被害者意識にとらわれていると、ただの物乞いになってしまいます」



慈善事業に熱心な大富豪ルベン・バルダニャンの意見はこうだ。「100年後、私たちは勝者になっているでしょう。苦難を

生き延びた強い民族なのですから。だからトルコ人を含めて、私たちを救ってくれた人々に感謝し、お返しをすることが

次の一歩です。100年前、誰かの祖父母が私たちの祖父母を助けてくれた。そんなささやかな物語を伝えていく必要が

あるのです」(バルダニャンは、ジェノサイドでアルメニア人を救った名もなき英雄たちをたたえる「オーロラ賞」に資金を

提供している)




アルメニア人迫害100年:ローマ法王が「虐殺」と発言した理由
毎日新聞 2015年5月15日 「アルメニア人迫害100年ローマ法王が「虐殺」と発言した理由」 より引用


キリスト教ローマ・カトリックの総本山・バチカン(ローマ法王庁)を擁するローマは大小の教会がひしめく「教会都市」

でもある。ローマ中心部、バルベリーニ広場の近くにあるアルメニア教会もその一つだ。



 アルメニアは紀元301年に世界で初めてキリスト教を公認し、国教と定めた国だ。今年4月、そのアルメニアが世界

中のメディアの注目の的となった。オスマン・トルコ帝国による第一次世界大戦期のアルメニア人迫害から100年を

迎えたためだ。



 アルメニア側は1915〜17年に当時のオスマン・トルコ帝国が領内のアルメニア人を弾圧し、組織的に約150万人

を虐殺したと主張している。これに対して、トルコ側は、反乱を起こしたアルメニア人を鎮圧する戦闘で双方に30万〜

50万人の死者が出たことは認めているが、「虐殺ではない」と反論。両国間の歴史問題になっている。



 一石を投じたのがカトリック教会の頂点に立つフランシスコ・ローマ法王だ。4月12日、バチカンのサンピエトロ大聖堂

でミサをささげ、「虐殺(ジェノサイド)」という言葉を使ってアルメニア人迫害を、ホロコースト(ナチス・ドイツのユダヤ人

大虐殺)、ソ連最高指導者スターリンによる大粛清と並ぶ「前世紀の前代未聞の3大惨劇」と位置づけた。



 トルコの神経を逆なでしたのはフランシスコ法王が、2001年の先々代法王、故ヨハネ・パウロ2世とアルメニア使徒

教会のカレーキン2世総主教の共同声明を引用して「『20世紀最初の虐殺』と広く認識されている」と述べたためだ。

その上で「罪悪を隠し、否定するのは傷を手当てせずに血が流れるままにするようなものだ」と語り、虐殺と認めない

トルコを批判した。



 実はフランシスコ法王がアルメニア人迫害を「虐殺」と表現したのは今回が初めてではない。一昨年6月にアルメニア

・カトリック教会のネルセス・ベドロス19世タルモウニ総主教とバチカンで面会した際、迫害犠牲者の子孫に「20世紀

最初の虐殺だった」と声をかけた(この時には、バチカン報道官が「法王が公式に認めたものではない」と弁明に

追われた)。



 法王との面会で総主教は四つのお願いをしたという。(1)迫害100年のミサ(2)記念切手の発行(3)法王書簡の

発表(4)アルメニア教会が誇りとする修道司祭、ナレクの聖グレゴリオ(950年ごろ〜1005年ごろ)を「教会博士」

と宣言すること・・・だったとされる。法王は「虐殺」と発言した4月12日のミサで(1)と(4)の約束を果たした。



 トルコ側の反発は激しかった。トルコ政府は自国の駐バチカン大使を召還。エルドアン大統領は「法王が同様の過ちを

二度としないよう警告し、法王を非難する」と述べた。ギョルメズ宗教庁長官(イスラム教指導者)も「(アルメニア側の)

政治ロビーと広告会社に吹き込まれた発言であり、事実無根だ」と反論した。



 ボスキール欧州問題担当相は法王が「ナチスを受け入れ、離散アルメニア人がメディア界・財界を牛耳っている」

アルゼンチンの出身だからだと説明したという。アルゼンチンが第二次世界大戦後、ナチス・ドイツ指導者の亡命を

認め、戦犯としての追及を受けずに済むようかくまった経緯を指したものだ。



 トルコの反発は、法王発言の影響力の大きさを熟知しているからだ。世界の各界指導者669人のツイッターの動きを

モニターしているウェブサイト「ツイプロマシー」(ツイッターの外交)の報告書によると、法王は平均リツイート数が最多で

「世界で最も影響力がある指導者」だという。



「今も心に傷」 アルメニア神学校長



 アルメニア側の反応を知るため、ローマのアルメニア教会に併設されている「アルメニア神学校」を訪れた。神学校横

の壁には「アルメニア人虐殺」の犠牲者を追悼するパネルが設置されている。神学校のジョルジェス・ナラドゥンギアン・

ダンカイエ校長に聞いた。



☆法王発言を聞いてどう感じましたか。



 ■「虐殺はなかった」という主張がまかり通り、アルメニア人は今も心に傷を抱えている。法王の言葉は傷口を閉じ、

慰めようとするものだ。トルコから「虐殺」の表現を使わないようにという圧力があったかどうかは知らないが、勇気ある

発言だ。(バチカンが)大国や兵器製造国、貿易国家ではないからこそ言えた面もあるかもしれない。法王はカリスマ

性があり、流れに逆らうことができる。皆が避けたがる「虐殺」という言葉を使っただけでなく、黙っていれば、さらなる

虐殺を招く「緑信号」になりかねないと警鐘を鳴らしたのだ。



☆法王は、イスラム過激派組織「イスラム国」(IS=Islamic State)によるキリスト教徒迫害を懸念しています。



 ■法王の懸念は対キリスト教徒迫害だけにとどまらない。イスラム教徒も迫害の犠牲になっているからだ。



☆トルコは「虐殺」発言に反発しましたが、トルコとアルメニアの和解は可能ですか。



 ■問題は虐殺と認めない(トルコ政府の)首脳にあり、政府と国民は別だ。アルメニア人はトルコ人らと平和的に

暮らしてきた。



☆米政府は「虐殺」と認めていません。状況は変わりますか。



 ■変わるとは思わない。トルコは地理的な位置から地政学的な力を持っている。遺憾なことに「虐殺」問題はトルコと

大国が駆け引きする政治的道具として使われている。



背景にキリスト教徒迫害



 欧米メディアによると、アルメニア人迫害を「虐殺」と認定している国は法王の出身国アルゼンチンやロシア、

フランスなど22カ国にすぎない。オバマ米政権は、「虐殺」との表現は大統領声明で使用しない方針をアルメニア系

米国人団体に伝達した。



 米国にとって北大西洋条約機構(NATO)加盟国のトルコはかつては対ソ連の橋頭堡(きょうとうほ)であり、

現在はIS対策上、協力が必要な重要国だ。バチカンにとってもトルコはイスラム諸国との対話窓口であり、法王は

昨年11月のトルコ訪問ではホスト国に気配りしてアルメニア人迫害には言及しなかった。



 法王の「虐殺」発言の背景には、ISなどによる中東・アフリカでのキリスト教徒迫害が激しさを増している現状への

危機感がある。アルメニア人迫害への対応の違いは、トルコの戦略・地政学的な役割に重点を置く「ハードパワー」

の米国と、キリスト教徒保護を優先する「ソフトパワー」のバチカンの違いと言えるだろう。



 バチカンとトルコの関係は前任法王のベネディクト16世時代に一時、悪化した。今回の「虐殺」発言は外交問題と

して尾を引くのか。バチカンで文化間対話を推進する法王庁文化評議会のジャンフランコ・ラバージ議長(枢機卿)は

「(発言は)歴史的見解であり、今のトルコ国民を告発したものではない。時間がたてば問題は解決すると思う」との

見通しを示している。【ローマ福島良典】




「生と死 境界を科学する」 ナショナル ジオグラフィック 2016年4月号


聖母子への祈り







公開されていないバチカン宮殿奥の芸術

夜明けの詩(厚木市からの光景)

アッシジの聖フランシスコ(フランチェスコ)

美に共鳴しあう生命

神を待ちのぞむ(トップページ)

天空の果実


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