「神の道化師、フランチェスコ」

ロベルト・ロッセリーニ監督 1950年製作 イタリア

1950年ヴェネツィア映画祭出品

1991年3月16日 日本公開(三百人劇場)






この映画は聖フランシスコの一生を追った作品ではなく、聖フランシスコと兄弟たちの逸話を採集した

名作「聖フランシスコの小さき花」「小さき花2」から10篇を抜粋し映画化したものである。この映画に

登場する兄弟たちの中で特にジネプロにまつわる逸話が多く紹介されているということは、監督自身も

天真爛漫で、単純素朴なジネプロにひかれていたのかも知れない。またこの映画の特徴は、聖フランシ

スコと兄弟たち全てがフランチェスコ会の修道士によって演じられていることにある。



全編白黒の映画だが、ジネプロとジネプロを処刑しようとしたニコライオの演技が光っている。この二人

が出る逸話を見るだけでも価値が十分あるのではと感じてしまった。



本当にフランシスコが生きたアッシジにはなんと個性あふれる聖人たちが集まったのだろう。聖クララ、

兄弟ジネプロ、奇跡を数々起こした聖人エジディオ、そして多くの兄弟たち。神がアッシジという街に

特別な恩寵を与えたとしか考えられない。まさにこれも奇跡なのかも知れない。



聖フランシスコの一生を追った映画を見たい方には不向きかもしれないが、名作「聖フランシスコの

小さき花」を映画化したものとして貴重なものになるだろう。



尚、聖フランシスコではないが「神の道化師」トミー・デ・パオラ著の絵本も実に素晴らしい。



(K.K)


 




アッシジの聖フランチェスコと弟子たちの至福の世界

ネオリアリズモの巨匠ロッセリーニの美しく感動的な名作



聖フランチェスコはイタリアで最も人気がある聖人のひとりである。フランチェスコは12世紀

の末、イタリア中部ウンブリア地方の町アッシジの裕福な毛織物商人の家に生まれた。彼は

青年時代は放蕩生活を送るが、突然回心して小さき兄弟会(後のフランチェスコ会)を創立。

この映画は14世紀の「聖フランチェスコの小さき花」「兄弟ジネプロ伝」を基にフェリーニが

脚色を執筆。映画は10のエピソードから構成されていて、フランチェスコと弟子たちの共同

生活がユーモラスな淡々としたタッチで描かれている。小鳥に語りかけるフランチェスコ、

フランチェスコと聖キアーラとの会見、そして暴君ニコライオのヴィテルボ包囲など数々の

名場面がある。ロケはフランチェスコゆかりのウンブリア地方で行われ、風景描写が美し

い。撮影は「戦火のかなた」「にがい米」などのネオリアリズモ映画の名作、そしてフェリーニ

の「道」「甘い生活」の名撮影監督オテッロ・マルテッリが担当。監督のロッセリーニはネオ

リアリズムの巨匠であるが、この作品もネオリアリズモの名作のひとつである。フランチェスコ

役を初めとして小さき兄弟たちは全員が、ウンブリア地方のフランチェスコ会修道士である。

他に「無防備都市」でドン・ピエトロ神父を好演したアルド・ファブリーツィが、暴君ニコライオ

を演じている。今回のプリントは国立映画学校による修復版である。

(本DVD より引用)


 
 


冊子「神の道化師、フランチェスコ」
冊子構成・執筆 柳澤一博 より抜粋引用



当時の評価はともあれ、戦後の10年間はロッセリーニにとって最も充実した時期であった。

「神の道化師、フランチェスコ」(50)は、この時期の埋もれた名作である。後にロッセリーニ

は劇場用映画から撤退し、テレビ用映画で歴史上の人物を次々に取り上げるが、「神の道

化師」は忠実を重視した伝記映画ではない。この映画はフランチェスコと彼の弟子(小さき兄

弟)たちの信仰生活のスケッチであり、ユーモラスで淡々とした味わいがある。



「神の道化師、フランチェスコ」は、ウゴリーノ・ディ・モンテ・サンタ・マリアの14世紀前半の書

「聖フランチェスコの小さき花」及び「兄弟ジネプロ伝」から着想を得ている。「聖フランチェスコ

の小さき花」及び「兄弟ジネプロ伝」は系統的な伝記ではなく、フランチェスコと小さき兄弟たち

の逸話集である。「神の道化師」は、1210年から1218年までの出来事が10のエピソードで構成

されている。この作品の脚本を手掛けているのはフェリーニであるが、エピソードで構成された

語り口は後のフェリーニ作品を思わせる。





小さき兄弟会(後のフランチェスコ会)の会則は厳格なことで知られている。だが、兄弟たち

の生活は伸びやかで、楽しそうである。「子供のように快活な彼らは、悲しみなるものが存在

しない世界から来たように思えた。」「神の子たる彼らは、もはや世間に誘惑されることのあり

得ない人々、もはや何一つ所有しないことをむしろ享受する人々の自由を勝ち取ったのであ

る。そのことは何という軽やかさを与えることだろう」(ジュリアン・グリーン、原田武訳「アシジ

のフランチェスコ」)。



フランチェスコは温和だった。ジネプロやジョヴァンニは道化者であった。兄弟たちは愉快な

ことに事欠かなかった。フランチェスコにとって憂鬱は悪魔に由来するものであった。兄弟の

ひとりエジディオは晩年に回想する。「彼らは言葉に尽くせないほどの愛で、たがいに愛しあっ

ていた」。だが、兄弟たちに別れの時がくる。彼らは布教のために礼拝堂を後にする。映画の

エピローグで兄弟たちは子供の遊びのように体をぐるぐる回し、目が回って倒れた方角に布教

に行く。彼らはイタリア各地に散らばってゆく。



フランチェスコの生きた時代は戦乱の時代であった。ウンブリアの大飢饉、教皇と神聖ローマ

皇帝の覇権争い、都市国家どうしの争い(皇帝派のアッシジと教皇派のペルージャの戦争)、

そして十字軍遠征、フランチェスコの在世中、三たび(第3回、第4回、第5回)に渡る十字軍遠征

が行われる。1212年には少年十字軍が結成される。フランスで3万人の少年がマルセイユ

到着し、7隻の船でパレスチナに向かう。そのうち2隻は沈没し、残る5隻の少年たちは奴隷商人

に売られる。ケルンでは2万人の少年十字軍がアルプスを越えジェノヴァに到着するが、疲れ果て

散り散りになる。



13世紀の教会は腐敗していた。高利貸し、聖職売買、奢侈と淫蕩、美食。そして教会への批判

勢力としてカタリ派などの異端に悩まされる。13世紀はプロテスタンティズムの萌芽の時代でも

ある。しかし、フランチェスコは教会と聖職者に敬意を抱き、どのように教会が堕落しようと決し

て批判しなかった。











2012年7月27日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した記事です。







原罪の神秘



キリスト教の原罪、先住民の精神文化を知るようになってから、この原罪の意味するところが

何か考えるようになってきた。



世界の先住民族にとって生は「喜びと感謝」であり、そこにキリスト教で言う罪の意識が入る

余地などない。



ただ、新約聖書に書かれてある2000年前の最初の殉教者、聖ステファノの腐敗していない

遺体、聖フランシスコと共に生きた聖クララの腐敗を免れている遺体を目の前にして、彼ら

の魂は何かに守られていると感じてならなかった。



宇宙、そして私たちが生きているこの世界は、未だ科学的に解明できない強大で神秘な力

に満ち溢れているのだろう。



その神秘の力は、光にも、そして闇にもなる特別な力として、宇宙に私たちの身近に横た

わっているのかも知れない。



世界最古の宗教と言われるシャーマニズムとその技法、私が感銘を受けたアマゾンのシャ

ーマン、パブロ・アマリンゴ(NHKでも詳しく紹介された)も光と闇の二つの力について言及し

ている。



世界中のシャーマンの技法の中で一例を上げれば、骨折した部分を一瞬にして分子化した

のちに再結晶させ治癒する光の技法があれば、病気や死に至らせる闇の技法もある。



これらの事象を踏まえて考えるとき、その神秘の力が遥か太古の時代にどのような形で人類

と接触してきたのか、そのことに想いを巡らすこともあるが、私の力の及ぶところではないし、

原罪との関わりもわからない。



将来、新たな遺跡発見や考古学・生物学などの各分野の科学的探究が進むことによって、

ミトコンドリア・イブを祖先とする私たち現生人類、そしてそれより先立って誕生した旧人

言われる人たちの精神文化の輪郭は見えてくるのだろう。



しかし私たちは、人類・宗教の歴史その如何にかかわらず、今を生きている。



原罪が何であれ、神秘の力が何であれ、人間に限らず他の生命もこの一瞬・一瞬を生きて

いる。



前にも同じ投稿をしたが、このことだけは宇宙誕生以来の不変の真実であり、これからも

それは変わらないのだと強く思う。



最後にアッシジの聖フランシスコが好きだった言葉を紹介しようと思います。尚、写真は

聖フランシスコの遺体の一部で大切に保存しているものです。



私の文章で不快に思われた方、お許しください。



☆☆☆☆



神よ、わたしをあなたの平和の使いにしてください。

憎しみのあるところに、愛をもたらすことができますように    

いさかいのあるところに、赦しを

分裂のあるところに、一致を

迷いのあるところに、信仰を

誤りのあるところに、真理を

絶望のあるところに、希望を

悲しみのあるところに、よろこびを

闇のあるところに、光を

もたらすことができますように、

助け、導いてください。



神よ、わたしに

慰められることよりも、慰めることを

理解されることよりも、理解することを

愛されることよりも、愛することを

望ませてください。



自分を捨てて初めて

自分を見出し

赦してこそゆるされ

死ぬことによってのみ

永遠の生命によみがえることを

深く悟らせてください。

☆☆☆☆




(K.K)









アッシジの聖フランシスコ(フランチェスコ)

神を待ちのぞむ(トップページ)

天空の果実

私の愛する写真集・絵本

聖フランシスコに関する写真集・映画に戻る