チェスの文献・「人工知能の核心」羽生善治・NHKスペシャル取材班・著

NHK出版新書




2017年6月20日掲載





本書「人工知能の核心」より引用



セカンドオピニオンとしての人工知能


もちろん、人工知能をいわば「仮想敵」のように位置づけてしまって、その効果的な利用法を検討しないのは、得策では

ありません。うまく活用すれば、必ず私たち人間にとって大きな力となるはずです。



例えば、その一つが「セカンドオピニオン」としての人工知能です。「セカンドオピニオン」とは、医療の世界の言葉で患者

さんが一人の医師だけでなく、別の医師からも、「こういう診断(あるいは治療法)もあります」と第二の意見を聞くことです。



同様に、私は、人間同士の判断だけでなく、人工知能に、「こういう可能性もあります」と提示してもらってもいいのではない

かと考ええいます。



将棋ソフトは人間の思考の盲点を突いてくるという話をしましたが、逆に言えば、それは自分の視座が変るような見方を

教えてくれるということでもあります。「自分はこう思うが、人工知能はどう思うのか」と、あくまで絶対の判断ではないという

前提を使っていくやり方もあるはずなのです。



前述の通り、チェスの世界ではもう10年以上前から、ソフトを使って、指し手を分析したり、研究したりすることが当たり前

になっています。初期の段階ではソフトが出す回答にばらつきも多く、上手に使いこなせるかが勝敗を分ける大きなポイン

トになっていましたが、今は皆が利用しているので、そこでは差がつきません。勝負のレベルはソフトをいかに上手に使い

こなし、データベースを含めてプログラムをどの程度まで利用していくかという話にまで達しています。



将棋の世界でも、人工知能が人間の盲点を突いてきた手について、「やってみたら、この組み合わせも案外良いのでは

ないか」と受け入れられることも増えてきました。今では人工知能の指した手が定跡になていく事例さえ出てきているの

です。





人工知能には「時間」の概念がない より抜粋引用


逆に言えば、がんの診断で人工知能が成果を出しているのは、X線写真がそもそも静止画像だからなのです。アルファ碁

もそうです。一つ一つの局面はあくまでも静止画像であるからこそ、現在の人工知能の手法が使えたのでしょう。



しかし、私は、「美意識」には、「時間」が大きく関っているように思うのです。



例えば、棋士が将棋ソフトの手に覚える違和感、煎じ詰めると一つ一つの手は素晴らしくても、そこに秩序だった流れが

感じられないことに由来しているように思います。それは、その時々の局面を一枚の静止画像と捉えて手を選び出して

おり、その後の局面の流れを検討していないように思えるのです。



だからこそ、文法は正しくてもおかしな文章と同じく、人工知能の選ぶ手に、一貫性を欠いた奇妙な違和感を覚えてしまう

のでしょう。



こういう将棋における「美意識」については、第二章で「見慣れたものに覚える安定感や落ち着きと関っている」という趣旨

のことを書きました。



そんな「美意識」に、「時間」という概念を考慮すると、人間は、「一貫性や継続性のあるものを美しいと感じる」と言えない

でしょうか。実際に、海や山など自然界の悠久の存在は、しばしば美しい情景として描かれる対象です。



そう感じるのは、自然のなかで安定したものを「美しい」と感じることが、人類が過酷な生存競争を勝ち抜いていく上で、

有利だったからなのかもしれません。あるいは普段から人間は自然に取り囲まれていますので、あくまで生物学の言葉で

言う「個体学習」から来る「慣れ」として、「美しい」と感じている可能性もあります。おそらく実際には、その両方でしょう。



いずれにせよ、「美意識」は、「時間」の流れのなかでの文脈をつかむ能力と密接に関わっている気がしてなりません。



その意味では、コルトンさんの「詩は人間が作った方が面白い」という言葉は、腑に落ちるものがあります。まさに詩は、

人間が生きる「時間」、そしてその文脈から生まれる芸術だと思えるからです。また、オーケストラの指揮者がどんな音楽

を奏でるのかという、人間の個性を楽しむ娯楽が、人工知能では面白くならないように私が感じるのも、そういう部分から

来ているような気がします。





多様性が進化を生む


「学習の高速道路」について、私にはもう一つの根本的な疑問があります。それは、本当に皆で「高速道路」を走っていく

ことが、進化を進めることなのだろうか、ということです。



実は、自然界では、むしろ生物の個体それぞれが遺伝的に多様性を持つことが、進化の鍵となっています。とするならば、

全員が同じ選択をすることは、むしろ全体から見ると、多様性が失われていて、かえって進化が止まっていまう気もするの

です。



少し身近な喩えを出しましょう。食べログというウェブサイトがあります。ご存知の通り、飲食店を採点する口コミサービス

です。もし誰もが食べログの点数を絶対的に正しいと信じるようになり、星の少ない店にはみんな行かないような社会が

来たら、どうなるでしょうか。



なかなか新しい店に光があたらなくなるでしょうし、そもそも私はそういう社会は不健全だと思います。むしろ、「この店は

星二つだけど、私は絶対ここに行くんだ」という人がたくさんいる方が、外食産業や当の食べログにとってもより良い進化

が訪れると思いますし、私は良い社会だと考えます。



将棋ソフトで言えば、「評価値」は、まさに数値で形勢判断を示してくれるものですから、一見すると絶対的に正しい評価に

思えます。



しかし、意外にも評価値には、接戦となると300~500点程度の、引き分けにあたるゾーンがあったりします。800点ほどに

達すれば、明らかに評価値が正しくなってくるのですが、大事なのは選択肢に「遊び」の余地があるという事実です。



囲碁の世界と同様に、将棋の世界にも「一局の将棋」という言葉があります。究極的には正しい手が一つだけあるとして

も、まずはこの手で一局指してみよう、という考え方です。そういう「遊び」の姿勢で取り組むことが、私は大事だと思います

し、逆に言えば、評価値の数字を知っておくことで、大胆な形の手を試していくこともできるのではないでしょうか。






Essent Chess Tournament 2005 open 羽生義治氏記録紹介|freeml より引用
 


「伝説のチェス王者」フィッシャーを救え 羽生善治 私が小泉首相あてに嘆願書のメールを送った理由 文藝春秋2004年11月号

を参照されたし。





文藝春秋 2004年11月号より抜粋引用


「一本勝ち」がフィッシャー流

フィッシャーさんのチェスの素晴らしさについてもう少し述べます。チェスと将棋の最大の違いは、

チェスでは取った駒を使うことができないところです。だから試合が進むにつれて盤上の駒が少

なくなり、引分けに終わることが多い。高度なレベル同士の対戦になればなるほど、差がつきに

くく、見ていて地味な印象に映る傾向があります。たとえていえば、レアル・マドリード対ACミラン

のような、最高レベルのサッカーの試合になるほど、逆に点が入りにくいのといっしょです。



ところが、フィッシャーさんは、普通なら0-0や、良くても1-0にしかならないような対局で、3-0の勝

ち方をしてしまうプレイヤーなんです。柔道でいうと、判定ではなく、一本勝ちを狙いにいって、そ

の通りに勝ってしまう井上康生選手のような存在とでもいいますか。



ですから見ていて非常に爽快だし、派手で華麗です。棋譜の中に、こんな手順が実際に盤上に

現れるのかと、ほれぼれするような手が多い。



別の言い方をすると、フィッシャーさんのチェスは「将棋的」と言えるでしょう。将棋では、言うまで

もなく相手の王将をいかにして取るかを考えます。チェスも、相手のキングをとれば勝ちなことは

変わりませんが、多くのチェスプレイヤーは、キングを取るより、ポーン(将棋でいう歩)を取るこ

とを狙っています。チェスは将棋よりも駒の数と盤の空間が凝縮されていますから、相手の駒を

一つでも多く取ればそれだけ勝利の可能性が高くなる。ポーンを一個無条件で獲得できれば、

高いレベルではそれがそのまま勝利に結びつくのです。



ところがフィッシャーさんは、ポーンやナイト、時にはクイーンまでも相手に取らせて、思わぬ一手

からキングを詰ませる戦法をしばしば取ります。



その才能は十代のときから現れ、1956年のドナルド・バーン戦で、クイーンをわざと捨てる(むし

ろ無理やり相手に取らせる)ことで、勝利を呼び込みました。これは専門家たちから「何世紀も

語り継がれる一手だろう」「不滅の偉大なチェスの天才のあいだに自らを列せさせた」と讃えられ

ました。



また1963年のUSチャンピオンシップで、ロバート・バーンと対戦したときの一手も有名です。この

とき21手目までに、フィッシャーはナイト(将棋の桂馬にあたる駒)損をしていて、観戦するグラン

ドマスターの中からはフィッシャーは投了すべきだろうという声まで出ていました。ところが、フィッ

シャーさんがクイーンを一つ動かしたら、バーンはたちまち投了してしまった。



この対局は一見フィッシャーさんの大逆転に見えるんですが、実は10手や15手前から、局面が

こうなったらこの手があると最後まで読み切っていた。ナイトを取られたのではなくて、相手に取

らせたのです。



ある人から、「『羽生マジック』に似ていますか?」と聞かれたことがありますが、とんでもない。私

の将棋はミスも多いですがフィッシャーさんは最初から完璧に近い。神の領域に近づいている人

です。



フィッシャー流とも言える攻撃的なチェスの棋風は、今でも多くのプレイヤーに受け継がれていま

す。フィッシャーさんの二代後の世界チャンピオン・ガルリ・カスパロフも攻撃的なフィッシャー流

だと思います。



もしフィッシャーさんが将棋を指していたら、とてつもなく強くなったのではないかと思います。将棋

の世界では、なかなかフィッシャーさんのような天才は思い当たりませんが、あえて挙げるとする

と、私は升田幸三先生を思い浮かべます。




 
 


以下、 「完全なるチェス 天才ボビー・フィッシャーの生涯」フランク・ブレイディー・著 佐藤耕士・訳 羽生善治・解説 文藝春秋 

から引用



解説 羽生善治



チェス界のモーツァルト

もし、「フィッシャーはどんな人?」と聞かれたら、「チェスの世界のモーツァルト」と私は答えます。

モーツァルトとの共通点は3つあります。



1 誰もが認める“天才”であること



2 その天才性を簡単に知ることが出来ること

音楽を深く勉強しなくてもモーツァルトの素晴らしさを理解できるように、フィッシャーのチェスも

ルールが解ればその力強い指しまわしに魅了されるはずです。



3 それとは別の部分に大きなギャップがあること



モーツァルトが残した様々な手紙の内容は、お世辞にも上品とは言えません。あの音楽を作った

人が何故、このような事を書くのか。フィッシャーも同様で、あの極めて芸術性の高いチェスを指

す人が何故、あのような発言、信条を持つのか。著者は理解の難しいこの人物に対して、多面的

に慎重に、そして節度を持ってペンを進めています。個人的には、世界チャンピオンになった後の

空白の20年間は全く知らなかったので、とても興味深かったです。貧困も極めたといううわさは

知っていましたが、まさかあそこまでだったとは・・・。



本書の理解を深めるために、付け加えた方が良さそうな箇所がいくつかあります。



例えば、第3章の「クイーン・サクリファイス」について、チェスではクイーンがとても強い駒で、それ

を無条件に捨てるのは負けに等しい。にもかかわらず、13歳のフィッシャーは完璧なコンビネー

ションで読み切って強豪のバーンを負かしました。今でこそ10大前半のグランドマスターは珍しく

ありませんが、その強さ、内容の衝撃度ははかりしれないでしょう。



第5章に出てくるミハイル・タリは様々な盤外作戦を仕掛けますが、フィッシャーと同様に意外性の

あるコンビネーションを見せるとても人気のあったプレイヤーの一人です。第13章に出てくるポル

ガー三姉妹
の父がある時、対局中のタリに対して「うちの娘にチェスを教えてくれませんか?」と

依頼したところ、公式戦の試合をすぐに引き分けにして指導したエピソードも残っています。ハン

ガリーは現在チェスの強豪国で、2年に1度行われるチェス・オリンピアードでは優勝候補の一角

を常に占めています。ジュジャはその女子チームではなく、一般チームの主力メンバーの一人

です。フィッシャーとのたくさんの対局が、実力の向上に一役買ったのは間違いないでしょう。



また、以前は封じ手にして2日で1試合行われていました。1日目は1対1の勝負ですが、そこから

先はセコンド・チームメイトの分析が加わるのでチーム力が優勝の決め手になります。フィッシャ

ーが大変だったのは、セコンドがいたとしても圧倒的なチーム力の差を個人で埋めなければなら

なかったことです。



チェスはいつでも合意すれば引き分けにすることが出来ます。同国人であったり、個人的に親し

ければ早い段階で引き分けにして体力を温存するケースもあります。チェスの大会は毎日連続

して行われるので肉体的なタフさも求められます。そういう意味でもフィッシャーは常に不利な

環境で戦わざるをえなかったとも言えます。



また、ソ連の時代は国家としてチェスプレーヤーを保護し育成をしていたのに対し、当時のアメ

リカはそこまでサポートの出来る環境ではありませんでした。だから、経済的には恵まれない

大会に参加するよりも、多面指しのツアーへ行って収入を確保したりもしています。そんな中で

世界選手権を勝ち進んでいったのですから、驚嘆すべき存在だと思います。



第9章でフィッシャーとのマッチで負けたマルク・タイマノフが「私にはまだ音楽がある」というコメ

ント残したのは、タイマノフはチェスプレーヤーと同時にピアニストとしても活動をしていたからで

す。このシリーズではタイマノフ、ラーセンという当時のトッププレーヤーに完封勝ちをしています。



チェスのトップGM(グランドマスター)同士の対戦は、白盤(先手番)では勝ちを目指し、黒番

(後手番)では引き分けを目指すのが多いのです。もし、白盤が引き分けを目指した時に黒番

で勝つのは限りなく難しく、白番が勝ちに来た時に黒番の勝つチャンスが生まれるのです。

1対1のマッチですから不利な方が積極的に勝ちに行かなければならない訳ですが、それを差し

引いても6対0は信じられません。今後はこのような記録は作られることはないでしょう。



世界選手権で対戦をしたボリス・スパスキーとは一度、フランスで会った事があります。気さくで

冗談が好きな人です。余興で対局をしていたスパスキーとタイマノフのブリッツ(早指し)を側で

見ていたのですが、その瞬間的な切れ味の良さには深い感銘を覚えました。元世界チャンピオ

ンですから当然と言えば当然の事ですが、自分にとっては印象深い思い出の一つになってい

ます。その時に、私のチェスの先生であるジャック・ピノーさんとスパスキーとでこんな会話があ

ったそうです。



「フィッシャーは日本にいるのか? 君は会った事があるのか?」

「日本にいるのかも解りませんし、会った事もありません」

スパスキーはニヤニヤ笑って、

「そうか、またマッチがやりたくなったらいつでも受けると伝えてくれ」

ロシアでは「いない」は「いる」で、「会った事がない」は「会った事がある」になるようです。



1972年にそのスパスキーをアイスランドのレイキャヴィクで破って世界チャンピオンになった

フィッシャーは一躍、時代の寵児となります。しかし、初の防衛戦となるはずだった1975年の

アナトリー・カルポフとのマッチは条件面で折り合いがつかず、行われることがありませんでし

た。この後、カルポフは約10年間、負けることが極端に少ない無敵のチャンピオンとして君臨

します。攻撃的なフィッシャーと、負かしにくいカルポフとのマッチとなれば、最強の矛と盾の

対決となった訳で、かえすがえすも残念な結果となりました。



しかし、フィッシャーが提案していたどちらかが10勝するまでマッチを続けるというのは恐ろし

いルールで、もし実現していたら何十局かかるか解りません。実際、1984年から1985年に行

なわれたカルポフ対カスパロフはどちらかが6勝するまで行われました。カスパロフが初勝利

を挙げたのは32局目、結局、カルポフ5勝、カスパロフ3勝、40引き分けでマッチは延期にな

りました。



フィッシャーが望んでいたのは真のチャンピオンを決める理想的なルールであった訳ですが、

同時に、運営する、設営する側にとっては現実的には困難なオファーであった訳です。適当

に妥協してうまくやって行けば良いのにと多くの人は思うでしょうが、それをしないのがフィッ

シャーたるゆえんなのだと思います。



2012年11月



 





羽生さんの名局

Predrag Nikolic vs Yoshiharu Habu
"Gold General" (game of the day Jul-30-11)
Bruxelles Rapid 2007 ・ Queen's Gambit Declined: Traditional Variation (D30) ・ 0-1




nikolic_habu_2007.pgn へのリンク





Peter K Wells vs Yoshiharu Habu
Essent Open 2005 · Semi-Slav Defense: Meran Variation (D47) · 0-1




wells_habu_2005.pgn へのリンク











元世界チャンピオンのガルリ・カスパロフと将棋の羽生義治のチェス対局が2014年11月28日、

六本木ニコファーレにて行なわれました。持ち時間は各25分で一手につき10秒加算する方式

です。結果はカスパロフの2戦2勝でした。



Yoshiharu Habu vs Garry Kasparov
Kasparov - Habu Tokyo Exhibition (2014), Tokyo JPN, rd 2, Nov-28
Modern Defense: Standard Defense (B06) · 0-1



habu_kasparov_2014.pgn へのリンク


Garry Kasparov vs Yoshiharu Habu
Kasparov - Habu Tokyo Exhibition (2014), Tokyo JPN, rd 1, Nov-28
Formation: King's Indian Attack (A07) · 1-0




kasparov_habu_2014.pgn へのリンク













 


羽生さんの国際戦の棋譜集(43局)

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