2012年4月11日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した記事です。
映画「ブラザーサン・シスタームーン」
アッシジの聖フランシスコは神が創造した全てのものに神の息吹きを感じた、と表現してもいいかも
知れない。しかしサイトでも書いたように、私はその気づきとは違う次元、世界がありのままの姿で
映し出されている次元にフランシスコが立っていたのではないだろうかと感じてならなかった。
純度の高い鏡を持つ者においては、世界に存在するすべてのものが、その存在の重みそのものを
映し出している。
純度の高い鏡、それはアニミズムにも共通している。岩田慶治氏は「木が人になり、人が木になる」
の中で、アニミズムを次のように語り、この鏡の模範を鎌倉時代の禅僧・道元に見いだしている。
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「自分が鏡になってそこに天と地を映すといっても、鏡になるための・・・そのために精進努力する
・・・手がかりはない。
しかし、それにもかかわらず、自分のまえに、自分にたいして、天と地ではなくてそれが一体となった
全宇宙が訪れるということは、そのとき、自分がすでに鏡になっていたということである。
いわゆるアニミズム、あるいは本来のアニミズム経験というのは、木の葉のさやぎ、川の流れの音、
あるい草葉の露に全宇宙の規則をみることであって、その経験の時・処において、宇宙との対話が
成立しているのである。
つまり、自分が鏡になって、そこに天地を〈同時〉に映しているということである。」引用終わり。
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しかし、この鏡を持つということは別の姿を映し出すことになる。フランスの哲学者でレジスタンスでも
あったシモーヌ・ヴェイユは逆にこの鏡のために、人々の不幸がそのままの重さで映し出され彼女を
苦しめた。しかしそれでも彼女は力強く言う。「純粋さとは、汚れをじっと見つめうる力である」と。
聖フランシスコにとって心の故郷であった10坪にも満たないポルチウンクラの教会、そこでヴェイユは
生まれて初めて何かの力に逆らえずひざまずく。
自分に何が出来るか、それは決して大げさなことでないかも知れない。公園でガラスの破片が子供た
ちを傷つけないよう拾っている人もまた偉大な聖人だと私は思う。世間から大きな賞賛を受けなくとも、
どれだけそこに心を込めているか。
映画「ブラザーサン・シスタームーン」は私にとって、「ラ・マンチャの男」と並んで生涯大事にし続ける
映画かも知れない。
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「太陽の歌」アッシジの聖フランシスコ
神よ、造られたすべてのものによって、わたしはあなたを賛美します。
わたしたちの兄弟、太陽によってあなたを賛美します。
太陽は光りをもってわたしたちを照らし、その輝きはあなたの姿を現します。
わたしたちの姉妹、月と星によってあなたを賛美します。
月と星はあなたのけだかさを受けています。
わたしたちの兄弟、風によってあなたを賛美します。
風はいのちのあるものを支えます。
わたしたちの姉妹、水によってあなたを賛美します。
水はわたしたちを清め、力づけます。
わたしたちの兄弟、火によってあなたを賛美します。
火はわたしたちを暖め、よろこばせます。
わたしたちの姉妹、母なる大地によって賛美します。
大地は草や木を育て、みのらせます。
神よ、あなたの愛のためにゆるし合い、
病と苦しみを耐え忍ぶ者によって、わたしはあなたを賛美します。
終わりまで安らかに耐え抜く者は、あなたから永遠の冠を受けます。
わたしたちの姉妹、体の死によって、あなたを賛美します。
この世に生を受けたものは、この姉妹から逃れることはできません。
大罪のうちに死ぬ人は不幸な者です。
神よ、あなたの尊いみ旨を果たして死ぬ人は幸いな者です。
第二の死は、かれを損なうことはありません。
神よ、造られたすべてのものによって、わたしは深くへりくだってあなたを賛美し、
感謝します。
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(K.K)
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