Zuni governor

Edward S. Curtis's North American Indian (American Memory, Library of Congress)


アメリカ先住民族の呼称

(ネイティブ・アメリカンとアメリカ・インディアン)


私はこのホームページの中でアメリカ先住民族の呼称をインディアン、及び

アメリカ・インディアンとしている。何故ネイティブ・アメリカンではなく、一部の

人の間で差別用語として見られているインディアンという呼称を使っているの

かを、下の文献の引用などを参考にしていただけたらと思います。また日本

で出版されたアメリカ先住民に関連した文献の多くは、ネイティブ・アメリカン

という呼称ではなく、インディアンあるいはアメリカ・インディアンを使っていま

すが、その背景を少しでも汲み取っていただけたら幸いです。




阿部珠理(あべ じゅり)

福岡市生まれ。UCLA大学院助手、香蘭女子短期大学助教授を経て、現在

立教大学社会学部教授。アメリカ先住民研究。著書に「アメリカ先住民・民族

再生にむけて」(角川書店)、「アメリカ先住民の精神世界」(日本放送出版協

会)、「みつめあう日本とアメリカ」(編者・南雲堂)、「マイノリティは創造する」

(共著・せりか書房)、「大地の声 アメリカ先住民の知恵のことば」(大修館書

店)、「ともいきの思想 自然と生きるアメリカ先住民の聖なる言葉」(小学館

新書)、訳書にアメリカ先住民の口承文学をまとめた「セブン・アローズ」(全

3巻 地湧社)、名著「ブラック・エルクは語る」、「文化が衝突するとき」(南雲

堂)、「ビジュアルタイムライン アメリカ・インディアンの歴史」(東洋書林)、論

文に「アメリカ・インディアン・アイデンティティの文化構造」など多数
2011年

にはNHKカルチャーラジオ、歴史再発見で「アメリカ先住民から学ぶ・その

歴史と思想」が放送された。


「NHKカルチャーラジオ 歴史再発見 アメリカ先住民から学ぶ―その歴史と思想」

阿部珠理著 NHK出版 より引用



ところで本稿では、アメリカ先住民とならんでアメリカ・インディアンという呼称を使って

いる。この呼称は、本書では、現在のアメリカ合衆国に相当する地域を中心に居住した

(居住する)先住民をその対象としている。インディアンという呼び名は、コロンブスがアメ

リカ大陸をインド亜大陸と間違えた歴史の誤謬に由来するものであるが、現在、アメリカ

政府の法令においては、ネイティブ・アメリカンとアメリカ・インディアン両方の呼称を併用

している。2004年に誕生した最も新しい国立のスミソニアン博物館の名称は「アメリカ・

インディアン博物館」である。この他、アメリカ先住民研究の中心である、アリゾナ大学、

UCLAはそれぞれ「アメリカ・インディアン学部」、「アメリカ・インディアン研究センター」を

有するなど、インディアンという呼称は、ごく一般的なものとなっている。尚、本稿では、

アメリカ・インディアンと同義でインディアンという呼称も用いている。現在、誰よりもアメ

リカ・インディアンの呼称を是としているのは、他ならぬ先住民自身である。先住民学の

第一人者であるラコタ・スー族のヴァイン・デロリア・ジュニアは、歴史がアメリカ・インデ

ィアンに対して犯した大罪を忘却しないためにも、「建設的抵抗」を示す名辞として、アメ

リカ・インディアンの呼称を使用し続けるべきだと主張している。そもそも歴史的、語義

的にも「ネイティブ・アメリカン」は、移民一世ではないアメリカ生まれのアメリカ人を意味

するもので、先住民を指すものではなかった。60年代以降の汎インディアン運動の担い

手であり、民族自決運動を大きく前進させたのは「アメリカ・インディアン・ムーブメント」に

他ならない。






「アメリカ先住民 民族再生にむけて」阿部珠理著 より引用


だが、政府もインディアン局も、アメリカ先住民の権利団体もそれぞれの部族も、

正式呼称について、推奨や宣言をしたものはいない。どちらの呼称を選ぶかは、

それこそ個人の自由に任されている。インディアン自身に限って言えば、最近で

は特定のこだわりを示す人は、非常に少なくなっているし、歴史の誤謬は誤謬と

して正しく記憶されてよいと、むしろアメリカ・インディアンの使用に積極的な人が

多い。ヴァイン・デロリア・ジュニア、デヴィッド・ウィルキンス、ロバート・ウィリアム

ス・ジュニアなどの先住民系の学者たちは、その立場を踏襲するだけでなく、「ア

メリカ・インディアン」の使用を、「建設的抵抗」を示すものとして一貫して続けてい

る。呼称の適否に関して、頻繁に質問を受けるのは先住民団体だが、その中で

も先住民系全国紙としてもっとも発行部数の多い「インディアン・カントリー・トゥ

デイ」の見解は、先住民の気持ちを最大限代弁したものだろう。新聞自体がイン

ディアンを冠しているわけだが、彼らは、ほとんどの部族議会が「アメリカ・インデ

ィアン」を認めており、その使用は、先住民族社会での主流となりつつあると言う。

その最大の理由は、先に触れたようにネイティブ・アメリカンが、彼らだけを指す

名称ではないこと、「全国アメリカ・インディアン会議」や「全国インディアン青年会

議」のような、インディアンの復権に歴史的役割を担った団体が存在すること、ま

た国内外に広く知られたニューヨークやワシントンの「インディアン博物館」の存在

を挙げる。そして収蔵品の質量ともに最高と言われる「インディアン博物館」が、

スミソニアンの最後の博物館として、2004年夏に開館したこともこの風潮を後

押しするだろう。すべての部族名を部族語で言い表すのが、もっとも実態に即し

ているが、それは現実的でなく、またすべての望ましい条件を備えた集合名称

は、今のところ存在していないし、今後もしないだろう。「インディアン・カントリー

・トゥデイ」の社説は、自分たちが何者であるかを、自分たち自身が一番よく知っ

ている限り、「アメリカ・インディアン」という呼称に問題はないと結論している。

またごく最近では、インディアンの語源に好ましい意味を読み取り、積極的に

「インディアン」回帰を志向する人たちも出てきた。その一つは、インディアンが

古代サンスクリット語Sindhu に由来するというものだ。その語は川、ことに「聖

なる Indus 」を指す。またコロンブスは「航海日誌」中で、インディアンを「 un

gente que vive en dios 」と描写しているが、「神とともに生きる民」というその

語句の最後「エンディオス」が、インディオに転化したと解釈するものもいる。

ずれもまた先住民の精神的伝統がよく表現できる語として、「インディアン」の

使用を勧めるものだ。


 

 


高橋順一著「はるかなるオクラホマ」より引用

1948年千葉県富津市生れ。京都大学文学部卒、ニューヨーク市立大学大学院

修了。人類学博士。ブルックリン大学、文化女子大学講師を経て、現在桜美林

大学国際学部教授。専門・社会文化人類学(北米インディアン文化のほか、日本

の捕鯨文化、グローバル時代の国際教育、等を研究テーマとしている)。主な

著作・「ニューヨークのど真ん中でも通じる日本人のための英会話」、「捕鯨の日

本文化誌」、「くじらの文化人類学」、「人間科学研究法ハンドブック」ほか。


しかし同時に、インディアンという言葉は先住諸民族のアイデンティティに関する

新しい認識の範疇を表す言葉でもある。ヨーロッパ人が渡来するまで、アメリカ大

陸に住む人びと全体を指す言葉は、どの言語にも存在しなかった。先住民にとっ

ては、自らのバンド(複数の家族があつまって形成する流動的な集団)こそが社

会生活の単位であり、その構成員が人間そのものだったのである。事実、多くの

先住民の言語において、部族の名称は同時に、「人間」を意味する言葉でもあ

る。異なる部族は異なる人々なのであり、ひとまとめにして認識されるべき存在

ではなかったのである。しかし、ヨーロッパ人は違った。彼らは個々の先住民部

族の違いなど一切おかまいなしに、強引にすべてを同じものだとみなして、イン

ディアンと呼んだ。インディアンという言葉には、そのようなヨーロッパ人の視点

からの認識が反映されているのである。後に、先住民族自身もインディアンとい

う言葉を受け容れ、外来の白人や黒人に対比される先住の民族という共通の

認識を深め、部族の境界を超えた集団アイデンティティを形成していったのであ

る。部族の差を越えてすべての「インディアン」の結束を訴える汎インディアン主

義の運動は、そのような認識が政治的な形をとったもので、もともとが外来者に

押しつけられた言葉を、今度は先住民自身が主体的に使うようになったのであ

る。今日、アメリカ・インディアンという言葉は、一般に南北アメリカ大陸の先住民

を指す言葉として除外されるのが普通である。エスキモーとアリュートは歴史的に

他の先住諸民族(すなわちインディアン)とは異なる時期に(彼らより遅く)北アジ

アから渡来してきた人々であるために区別されるのである。最近では、インディ

アンという語の持つ植民地主義的な意味合いを除去するために、「ネイティブア

メリカン」という言葉による置き換えが提唱されている。しかし、これは基本的に

政治的なコンテキストで使われる言葉であり、日常語としては馴染んでいない。

またネイティブアメリカンという語には、エスキモーやアリュートはもちろん、ハワイ

諸島先住民等、米国領土内のすべての先住民が含まれてしまう。したがって、

その点ではインディアンとは明らかに意味が異なっており、代替語としては必ず

しも適切でない。インディアンが日常生活の中で自分たちを指して使う言葉は、

やはり「インディアン」なのである。そうでなければ、カイオワやコマンチといった

部族名を使う。自分たちの集団アイデンティティのどの部分を強調したいかによっ

て、個々の部族名とインディアンという二つの名称を状況に応じて柔軟に使い分

ける。それが彼らのやり方なのである。その意味で、インディアンという言葉は

決して蔑称ではなく、ごくふつうに用いられている言葉なのである。


 


スチュアート・ヘンリ(昭和女子大学大学院教授)

「アメリカ・インディアンの世界 生活と知恵」マーガレット・フイート著より引用


「インディアン」:人によってはこのことばを使うべきではないという意見があります。

というのは、「インディアン」は、「インディアス」を目指したコロンブスがつけた名称

であり、当事者による名称ではないからです。しかし、「インディアン」は一つの民族

をさしているのではなく、北・中・南アメリカ、いわゆる新大陸の先住民全体を指し

ていうことばとして広く使われています。当事者を含めて、一般的な使い方として、

「インディアン」には、森林地帯の先住民を指し、極北地帯の「エスキモー」(正しくは

イヌイト/ユッピク)、そしてアリューシャン列島のアリュート民族を除いた用語です。

「インディアン」ではなく、「先住民」、あるいは First Nations やOriginal Peoples、

Native Americans と呼ぶべきとする意見もありますが、先住民といえばイヌイト/

ユッピクとアリュートを含むし、自ら First Nations といわないグループもあります。

さらに、いわゆるインディアン自身は「インディアン」という名称を使っているので、

インディアンという名称を葬りさることが適切ではありません。実際、自分のことを

インディアンと自称する人やグループは少なくありませんし、管見の限りではアメリ

カでは「インディアン」を使わない風潮はありません。要するに、誰が、どの状況に

おいてどの呼称を使うかということをふまえて、用語を選ぶべきです。国連では、

First Nation(s)といいますが、アメリカ先住民出身の法律家は American Indian

Law Center に加盟しているし、スー民族出身の有名な研究家デロリア(Vine

Deloria)という人が最近書いた論文名は Indian and Anthropologists です。

一部の人たちの「インディアン」を日本語から追放しようとしている言動は、こうし

た事情を十分に考慮していないと思います。


 


北沢方邦「ホピの聖地へ」より引用

北沢方邦・・・・1929年静岡県生まれ。信州大学名誉教授。現在は神戸

芸術工科大学教授として芸術工学・科学史などを講ずる。専攻は構造

人類学・音楽社会学・科学認識論。著書に「構造主義」「知と宇宙の波

動」「メタファーとしての音」「蛇と太陽とコロンブス」「日本神話のコスモ

ロジー」「歳時記のコスモロジー」「ホピの聖地へ」など多数。


「合衆国南西部にかぎらず、アメリカ大陸に住む先住民をアメリカ・インディアン、

あるいはスペイン風にインディオとよぶのは、いうまでもなくコロンブスが1942

年、カリブ海の島々に到達したとき、そこをインド亜大陸の一部と思いこみ、住

民をインド人(インディオ)と命名したからである。現在ではアメリカ合衆国のマ

ス・メディアは、彼らを先住アメリカ人(ネイティブ・アメリカン)とよぶが、彼らの

なかの目覚めた部分は、むしろ自分たちをインディアンと称してはばからない。

何百年にもわたる差別の歴史のなかで、土地を奪い、何百万というひとびとを

虐殺してきた白人たちに、過去の罪を思い起こさせるためにも、あえて差別語

のインディアンを名乗り、むしろその用語に、長い抑圧の歴史を行き抜いてき

た、勇者の誇りをあたえようというのである。したがって私も、先行する著書(

「ホピの太陽」「蛇と太陽とコロンブス」)同様この本でも、あえて彼らをアメリカ・

インディアンとよぶことにする。先住アメリカ人ということばは、たしかに差別的

ではなく、その意味では無害である。しかしそこからは、抑圧の歴史だけではな

く、この荒涼として広大な大自然のなかですばらしい知恵をもって生き抜き、

諸部族の個性にあふれたみごとな文化や、ときには文明を築いてきた彼らの

自信に満ちたたくましさは伝わってこない。事実、白人芸術家たちに大きな影

響をあたえ、合衆国の芸術界に確固とした地位を占めた幾多の俊秀を送りだ

した、サンタフェの有名なアメリカ・インディアン美術学校(インスティテュート・

オヴ・アメリカン・インディアン・アーツ)も、その名を変えたという話は聞かない

し、モホーク国(ニューヨーク州在住のモホーク族)の公式機関紙(現在は季

刊誌)“アクウェサスネ・ノーツ”の執筆者たちも、先住民(ネイティブ・ピープル)

ということばとともに、アメリカ・インディアンを堂々と名乗っている。」


 


「インディアンの夢のあと」徳井いつこ著 平凡社新書より引用

徳井いつこ・・・・1960年兵庫県生まれ。同志社大学文学部卒業後、神戸新聞出版

センターに勤務。編集者を経て、執筆活動に入る。1990年代、アメリカのバークレー

とパサディナに暮らす。著書に、「スピリットの器」(地湧社)、「ミステリーストーン」(筑

摩書房)がある。


アメリカ大陸の先住民を指して使われる「インディアン」という言葉は、コロンブスが大陸を

「発見」したとき、東アジアと錯覚して「インディアス」(当時、日本や中国を含む東アジア一帯

を指して使われていた)と呼んだことに始まる。一方「ネイティブ・アメリカン」という呼称は、

フィレンツェの船乗りのアメリゴ・ヴェスプッチにちなんでつけられた国名に由来している。先

住民にしてみれば、どちらに転んでもたいした違いはない。短くて古い方でいい、と考えたわ

けでもないだろうが、筆者が出会った人々はみな自分たちを「インディアン」と呼んでいた。

彼らの流儀にならって本書でもこの言葉を採用している。


 


富田虎男 「ビジュアル博物館 アメリカ・インディアン」同朋舎出版より引用

富田虎男・・・・1928年東京・小石川生まれ。現在、立教大学名誉教授。学習院

女子短期大学講師。主著として「ジェファーソン・アメリカ独立革命」「アメリカ史研究

入門(共著)」「アメリカ・インディアの歴史」など多数。


「なお、1960年代以来の北米先住民の民族自決運動の盛り上がりを反映して、

コロンブスの誤認から生まれた”インディアン(インド人)”という呼称をやめて、

”ネイティブ・アメリカン”と呼ぼうという動きがある。ところが、”ネイティブ・アメリカ

ン”にはハワイのポリネシアンなどの米国領土の先住民族も含まれるだけでな

く、外国生まれと対比して米国生まれのアメリカ人全部を指す場合もあって、彼

らと特定できないうらみがある。また北米では彼ら自身の呼称として”インディア

ン”が現在でも一般に用いられている。そこで本書では”アメリカ・インディアンと

呼ぶことにした。」


 


「アメリカン・インディアンの歌」渡辺信二 訳 より引用

渡辺信二・・・・立教大学文学部英文学科 教授。著書に「荒野からうたう声が

聞こえるーアメリカ詩学の本質と変貌」「まりぃのための鎮魂歌」「不実な言葉・

まことの言葉」など多数。


呼称は、事実認識ばかりか、他者への敬意の問題である。たとえば、エスキモーが

イヌイットに呼び変えられたように、それぞれの民族の求める呼び方をすることが基本

であろう。白人植民の以前から北アメリカ大陸に住んできた人びとを総称するために、

現在、ネイティブ・アメリカンという言い方が流布しているが、これは厳密に言えば、白

人を含めてアメリカに生まれた人たちすべてを意味しうる。また、その日本語訳となる

「アメリカ先住民」もまた、「後住民」である白人を基準にした言葉遣いである。かつて

流布した「アメリンディアン」とか「赤銅人」といった言い方はほとんどされなくなってい

るが、「インディアン」に関しては、今もそう呼ばれるのを好む人たちが多くいることも

確かだし、大学レヴェルでのカリキュラムでは、なお半数ほどに、「アメリカン・インディ

アン・プログラム」という名称が使われている。結局、「アメリカン・インディアン」が原書

のタイトルであるため、本書もまた「アメリカン・インディアン」という言葉を使うこととし

た。同様に、各民族名も原書に従った。


 


北山耕平・・・・「鷲と少年」より引用

「ネイティブ・マインド」「ローリング・サンダー」「インディアン魂(レイム・ディア)」

「シャイアン・インディアン 祈り」「虹の戦士」など数多くのインディアンに関する文献

を書いています。また北山さんのホームページ「Native Heart」では、ホピ族の指導者

であったダン・カチョンバの「生命の始まりから浄化の日まで ホピ物語」全文が掲載

されています。


この「大人になるとき聞かされる物語」のシリーズにおいて、私は「アメリカ・インディ

アン」と「インディアン」という言葉を使っています。彼らのことを「ネイティブ・アメリカ

ン」と呼ぶべきだとする意見もありますが、たとえどの呼称を用いたとしても、南北

アメリカ大陸の先住民を百パーセント適切に言い表しているとは思えません。アメ

リカで生まれた人は誰でも「ネイティブ・アメリカン」であるわけですし、私が出会っ

た多くのネイティブ・ピープルは自分たちのことを「インディアン」「アメリカ・インディ

アン」と胸をはって呼んでいました。ネイティブ・アメリカンと呼びかえればめでたく

この世界から差別がなくなるわけでもないのです。こうした言葉の置き換えに反

対するネイティブの人たちの話をしましょう。インディアンという言葉のもととなった

とされる「インディオ」という言葉は、もともと「In Dios」で、これは「聖なる道を生き

る人たち」文字どおりに訳せば「In God(神のなかにある)」のことだったと主張す

るアメリカ・インディアンの社会活動家がいます。その人たちに言わせれば「アメ

リカ」という言葉も、けっしてアメリゴ・ヴェスプッチという探検家の名前などから採

用されたものなどではなく、中米マヤ族の「Amerrika」という言葉からきているもの

で、これは「四方から風の吹く大地」を意味しているのだというのです。実際、イン

ディアンの人たちが自分たちのことを言うときには、それぞれの部族名、イロコイ

だとか、シャイアンとか、ズニなどの言葉を、自己を言い表す言葉として使うこと

のほうが多いようです。



Shell ornaments (Quinault)

Edward S. Curtis's North American Indian (American Memory, Library of Congress)







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