この三人の魂に共通することは、あらゆる存在、それが在るという、ただそれだけの中に 神・創造主の息吹を感じていたということだ。今の私には、アメリカ・インディアンこそ神の 教えを忠実に守り続けた真の求道者達ではないかと、そして現代社会が抱える危機を救 う唯一の指標のような気がしてならない。神は何故、聖書の言葉に触れることさえなかっ た彼らに、この「与え尽くし」という偉大な魂を授けたのか。三位一体のお互いを与え尽く す神の姿を彼らは遥か太古より万物を通してその肌で感じ取ってきていた。教義や神学と いう頭を通して理解するのではなく、日々の一日一日の生活の中から魂に深く刻まれて きたのである。アメリカ・インディアン、シモーヌ・ヴェイユ、アッシジの聖フランシスコ。これ らの魂に引きつけられている私のこの旅はまだ始まったばかりである。 1996.11.22
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ところで、このホームページは私の遺書だと思って書いています。私自身いつ死んでしまうかわか りません。それは明日かもしれませんし、何十年も先のことかも知れません。ただ自分が大事にし てきたこと、美しいと思ったものをこのホームページに綴っていくことが自分が生きてきた証だと思っ ています。私が死んでしまえばこのホームページも自然に消滅してしまいますが、もしほんの少しで も皆さんの心に残ったのなら、そして皆さんの一つの踏み台になれればそれだけで満足です。皆さ んにとって多くの実りある出会いが沢山恵まれますよう、祈っています。 2009年10月6日
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2016年4月4日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した記事です。 (大きな画像) アイスランド南部にあるセリャラントスフォス(滝)とオーロラ (写真1枚目はNASAより、それ以外は他のサイトより引用) 1枚目の写真、幻想絵画かなと思いましたが、滝の水しぶきで何度もレンズを拭きながら撮られた写真です。 オーロラのやや右側に明るく輝く星が織姫星(ベガ)、左側に輝く星が彦星(アルタイル)です。 ですから天の川が位置するところにオーロラが出現したんですね。 北欧では死者と生者の世界を結びつけているのがオーロラであり、イヌイットの伝説ではこの世で善い行いを した人はオーロラの世界へ行けると言われているようです。 死後の世界を意識することによって、初めて生の意味が問われてきたのかも知れません。 それはギリシャ哲学(ソクラテスやプラトンなど)よりも遥か太古の世界、ひょっとしたら私たち現生人類よりも 前の人類にも芽生えた問いかけのように感じています。 オーロラなど天球に映し出される様々な現象(太陽、月、天の川、星、彗星など)を通して、人類は異なる次元の 世界を意識し死後の世界とのつながりを感じてきた。 ただ、精神世界の本に良く見られる「光の国(星)からのメッセージ」的な言葉に違和感を感じているのも事実です。 自分自身の足元の大地にしっかりと根をはらずに、ただ空中を漂っている、或いは彷徨っているような感じしか 受けないからです。 アインシュタインの相対性理論、まだ理解は出来ていませんが、それぞれの立場によって時間や空間が変わる、 それは他者の立場(社会的・文化的・経済的)を想像することと同じ意味を持っているのではと感じます。 もし、相対性理論なしでカーナビを設定すると現在地よりも11キロずれたところを指してしまいますが、それが 人間同士や他の生命間のなかで実際に起こっている。 自分自身の根をはらずに、他者のことを想像することなど出来ないのではないか、その意味で私も大地に根を はっていないのでしょう。 一度でいいからオーロラを見てみたいです。 |
2012年8月12日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した記事です。 |
2012年7月27日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した記事です。 原罪の神秘 キリスト教の原罪、先住民の精神文化を知るようになってから、この原罪の意味するところが 何か考えるようになってきた。 世界の先住民族にとって生は「喜びと感謝」であり、そこにキリスト教で言う罪の意識が入る 余地などない。 ただ、新約聖書に書かれてある2000年前の最初の殉教者、聖ステファノの腐敗していない 遺体、聖フランシスコと共に生きた聖クララの腐敗を免れている遺体を目の前にして、彼ら の魂は何かに守られていると感じてならなかった。 宇宙、そして私たちが生きているこの世界は、未だ科学的に解明できない強大で神秘な力 に満ち溢れているのだろう。 その神秘の力は、光にも、そして闇にもなる特別な力として、宇宙に私たちの身近に横た わっているのかも知れない。 世界最古の宗教と言われるシャーマニズムとその技法、私が感銘を受けたアマゾンのシャ ーマン、パブロ・アマリンゴ(NHKでも詳しく紹介された)も光と闇の二つの力について言及し ている。 世界中のシャーマンの技法の中で一例を上げれば、骨折した部分を一瞬にして分子化した のちに再結晶させ治癒する光の技法があれば、病気や死に至らせる闇の技法もある。 これらの事象を踏まえて考えるとき、その神秘の力が遥か太古の時代にどのような形で人類 と接触してきたのか、そのことに想いを巡らすこともあるが、私の力の及ぶところではないし、 原罪との関わりもわからない。 将来、新たな遺跡発見や考古学・生物学などの各分野の科学的探究が進むことによって、 ミトコンドリア・イブを祖先とする私たち現生人類、そしてそれより先立って誕生した旧人と 言われる人たちの精神文化の輪郭は見えてくるのだろう。 しかし私たちは、人類・宗教の歴史その如何にかかわらず、今を生きている。 原罪が何であれ、神秘の力が何であれ、人間に限らず他の生命もこの一瞬・一瞬を生きて いる。 前にも同じ投稿をしたが、このことだけは宇宙誕生以来の不変の真実であり、これからも それは変わらないのだと強く思う。 最後にアッシジの聖フランシスコが好きだった言葉を紹介しようと思います。尚、写真は 聖フランシスコの遺体の一部で大切に保存しているものです。 私の文章で不快に思われた方、お許しください。 ☆☆☆☆ 神よ、わたしをあなたの平和の使いにしてください。 憎しみのあるところに、愛をもたらすことができますように いさかいのあるところに、赦しを 分裂のあるところに、一致を 迷いのあるところに、信仰を 誤りのあるところに、真理を 絶望のあるところに、希望を 悲しみのあるところに、よろこびを 闇のあるところに、光を もたらすことができますように、 助け、導いてください。 神よ、わたしに 慰められることよりも、慰めることを 理解されることよりも、理解することを 愛されることよりも、愛することを 望ませてください。 自分を捨てて初めて 自分を見出し 赦してこそゆるされ 死ぬことによってのみ 永遠の生命によみがえることを 深く悟らせてください。 ☆☆☆☆ (K.K) |
2014年1月19日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿したものです。 「もし私が何か良いことをしたのなら、それらは全て神に帰するように」 この言葉は確か童話作家のアンデルセンの言葉だったと記憶しているが、今の私に欠けているもの、 それを全て現しているといっても過言ではない。 私に限らず人は、自身の名誉や成功に対する称賛の風を、自分の中にしまい込みがちである。 しかしそれでは風はさえぎられ、新たな風を産み出すことはできない。 アッシジの聖フランシスコが好んで唱えた「平和を願う祈り」、この祈りには、自身を「平和の道具」と して使われることへの揺るぎない自覚が横たわっている。 私に向かって吹いてくる風は、良いものも悪いものもある。 しかしそれらの風が私をすり抜けるとき、また違う風を産み出すことが出来ればと思う。 宗教を問わず、神を信じているか否かを問わず、新たな浄化された風を世界に送り出すことができる 人は、聖なる人なのかも知れない。 現代社会を見ていると、いい風ばかり吹いているとは決して思わないが、一人ひとりが新たな風を 産み出しつづけるなら、きっと世界は変わっていくのだろう。 ☆☆☆ 写真は、2012年8月25日の夜明けの光景ですが、まるで不死鳥のようですね。☆☆☆ |
2012年4月27日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した記事です。 |
2012年1月11日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した記事です。
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2015年11月22日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した記事です。 数年前に、ある人に出会った。彼女は看護師さんで入院している患者さんの死期が不思議なことに見えると話していた。 彼女の言葉を確信したのはあることだったのだが、このような千里眼とでもいう能力は世界の先住民やカトリック (ピオ神父などが有名)にも見られる。 アイヌでは故・青木愛子さんは知られているが、沖縄・奄美のユタは殆どが女性で、ある日突然にその兆候が現れる。 日本以外のシャーマンは男性が多く、修行を経てからのに比べると沖縄・奄美のユタは世界的にも珍しいのかも知れない。 詳しくは知らないが、日本の東北地方のイタコ(元々は先天的もしくは後天的に目が見えないか、弱視の女性の職業)や、 瞽女(ごぜ)もそうだった。 盲目の旅芸人「瞽女」、彼女たちを幸いもたらす聖なる来訪者・威力のある宗教者として昔の人々は迎え入れた。 キェルケゴールは、「真理の証人とは、その一生涯、内なる戦い、恐れ、おののき、誘惑、魂の苦悩、霊的苦痛を深く 味わい尽くした人のことである。真理の証人とは、殉教者のことである」と言った。 これに似た苦悩はイヌイット(カナダ北部の先住民)、ブラジルの先住民のシャーマン(パブロ・アマリンゴはNHKでも 特集された)、チベットのある賢者や他の宗教・芸術家にも見出すことが出来ると思う。 しかしそれとは異なる側面を持つ力もあると思う。 エクソシスト(悪魔を追い出して正常な状態に戻す賜物をもった神父) 悪魔や悪魔祓いというと、中世のキリスト教が行なった残酷な魔女裁判を思い浮かべ嫌悪するだろうし、悪魔など 過去の迷信と思っている人も多いだろう。 ただ皆さんも知っているアッシジの聖フランシスコや、前述したピオ神父は魔女裁判とは本質的に異なるもの(悪魔) に苦しめられていた。 現代のバチカンではエクソシストになるには非常に高い徳性と経験が求められ、先ずその症状が精神性の疾患で ないことを踏まえたうえで行なわれているが、ある特殊な賜物が与えられていない限り出来ないことだと思う。 ハワイ先住民や南米大陸・アマゾン先住民のシャーマンの中には、そのような異なる側面の力を使う者がいることが 書かれているが、それは世界各地・日本でも見出せるのだろう。 ヒッグス粒子、これを神の粒子と呼ぶ人もいるが、それは物理学の次元での真理であり、神の領域とは異なるものだと思う。 宇宙創成から、現在にまで膨張を続ける宇宙、その力は完全に物理学の法則で説明(現代では不可能であっても)し得る ものを未来の人類は見出すと思う。 ただ、それは力そのものでしかなく、その力とどのように接触するかの姿勢は別の話であると感じる。 真実の話か比喩かわからないが、ブッダは川の水面を歩く行者を見て、その修行に何の意味があるのかを問い 嘆いている。 聖書も「わたしに預言をする力があり、あらゆる奥義とあらゆる知識とに通じていても、また、山を移すほどの強い信仰 があっても、もし愛がなければ、わたしは無に等しい」(コリント人への第一の手紙)とある。 存在を慈しむことと、存在を否定することの境界。 そこには物理学の真理とは異なる次元と境界、ヴェイユの言葉を借りると「重力と恩寵」の恩寵(おんちょう、神の恵み・ 慈しみ)が、私たちと神なる領域の唯一の接点であり跳躍であるのかも知れない。 私にはそれが肌を通して浸透はしていないし、冒頭の彼女のような賜物も有していない。 ただ難しいかも知れないが、方向性だけは見失いたくない。 写真は、惑星状星雲・NGC6543です。 |
2012年5月2日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した記事です。 もし私が総理大臣だったら 自分が総理大臣だったらと政治・経済のど素人が敢えて最悪の事態を想定し、勢いで書いてしまいました。 存分に笑い飛ばしてください。また一つ一つお答えできないかもしれませんが、批判は受けつけます。 @企業、研究機関、各分野の専門家を結集させ自然エネルギー研究の国家プロジェクトを早急に立ち上 げる。 これは一刻も早く原発廃炉の道筋をつけるためのものであり、3年間の間で実用化は難しくとも、その 理論の構築或いは方向性だけは何としても探さなければならない。これは国家を超えて人類の命運を 左右する最優先のプロジェクトだと認識する必要がある。 そして3年後に、原発の是非について国民投票を行う(B参照)。 また使用済み核燃料を如何に安全にしかも早く処理できるかの研究は、原発を産んだ科学者としての 責務であり、平行して行うことが不可欠である。 A現在の世界・社会情勢に機敏に対応できる体制をとっておくこと。 イスラエルがイランの核施設攻撃を行えば中東戦争が勃発し、原油の7割、天然ガスの3割が途絶える。 また戦争が長期に渡るか拡大すれば備蓄も底をつくであろう。中東以外の天然資源にしろ世界的に価格 が高騰するどころか、電力の需要を満たすべき量を確保することは困難である。そのような最悪の事態を 想定した対策を取る必要がある。 B Aに関連するが、この最悪の事態に何の備えなく遭遇すれば、多くの企業は倒産し失業者にあふれ、 社会的弱者が先ずその犠牲になる。それを防ぐには何をすればいいのか、原発再稼動も視野に入れて いいのか、それとも否なのか、今から国民的な議論をしなければならない。 C Aに関連し自然災害にも適用されるが、多くの人が現在の仕事を失ったときのことを踏まえ、生きて いくうえでの最低限の生活を守るため「村社会」を復活させ、さまざまな問題を村社会の住民同士で集積・ 共有化・報告できる社会の構築を急がねばならない。そして村社会を統合する行政機関が、各村社会に 食糧や必要物資の供給をするが、如何に迅速にそして平等に配分できるかなど、その方策を国が早急に 立てるべきである。 D Cに関連するが、大震災はいつ起こるか全くわからない。倒壊や火災など地震そのものの甚大な被害 が広範囲に広がっているだろう。倒壊や火災による人命救助は村社会が率先して、或いは隣の村と協力 することで迅速に動くことが命を助けることに繋がる。安否確認などのためにも村社会の住民の台帳を村 社会の複数の人間が管理しなければならないが、この個人情報を悪用させないための罰則などの規定も 当然必要である。 E ACDに関係するが、平常時から一人一人が助け合う精神を持つことこそ、大きな自然災害や戦争 などの世界情勢悪化に対して最も有効な防御であり対処の仕方である。「自分さえ安全だったら、豊か だったらいい」という市場原理主義的な考えからの脱却なくして村社会は実現不可能である。 F 今回の震災の被災地の復興、並びに放射能汚染対策に関しては、皆さんのご意見をお聞かせください。 (K.K) |
2012年5月8日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した記事です。 東工大クロニクル-No.402 下に紹介する研究に留まらず、幅広い分野の叡智を結集させた国家プロジェクトを立ち上げ、 実用化に向けての一歩を早く踏み出してほしい。 そして縄文時代に戻ることは出来なくとも、またたとえ都会に住んでいても、人と自然が共鳴 する場を時間をかけて創造していくこと。 自分に何が出来るかわからないが、その方向性だけは見失いたくない。 (K.K) |
2012年6月9日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した記事です。 40億年後の地球 250万光年も離れているアンドロメダ座大銀河は時速40万kmで、天の川銀河に近づいてきています。 そして40億年後に天の川銀河に衝突します。 そのシュミレーションがこの画像ですが、40億年後の人類、いや人類も進化の過程の通過点だとすれば、 どのような生物がこの光景を目にすることが出来るでしょうか。 私たちとは全く異なる体つきをしているのか、またその心は何を感じているのか。 進化論が正しいにせよ誤りにせよ、何らかの方向性を生物は与えられているように感じるときがあります。 私は古代の人より現代人が科学の面で進化しているものの、自然と人、人と人の絆は逆に退化している ように思います。 与えられた方向性とは違う軌道を科学がとるとき、生物の取り囲む環境は物質的にも精神的にも混沌の 中に彷徨うことになるのかも知れません。 40億年後の生物、その生物は現在の混沌をさらに深めているのか、それともこのアンドロメダ座大銀河と 天の川銀河の衝突のように再び一つの身体になっているのか。 それを決めていくのは、現在の私たち一人一人なのかも知れません。 (K.K) |
厚木市から見た「夜明け」の写真です。 2016年4月6日の夜明け(4時53分〜5時37分)の光景ですが、5日ぶりの朝陽です。 31年前の今日、カトリック山手教会で洗礼を受け、今では疎遠になってしまった教会。 いつか三位一体の互いを与え尽くさずにはいられない意味を感じられたらと思います。 ☆☆☆ |
2012年4月26日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した記事です。 |
Edward S. Curtis's North American Indian (American Memory, Library of Congress)