未来をまもる子どもたちへ



Kutenai girls at the lake-shore
Edward S. Curtis's North American Indian (American Memory, Library of Congress)











この三人の魂に共通することは、あらゆる存在、それが在るという、ただそれだけの中に

神・創造主の息吹を感じていたということだ。今の私には、アメリカ・インディアンこそ神の

教えを忠実に守り続けた真の求道者達ではないかと、そして現代社会が抱える危機を救

う唯一の指標のような気がしてならない。神は何故、聖書の言葉に触れることさえなかっ

た彼らに、この「与え尽くし」という偉大な魂を授けたのか。三位一体のお互いを与え尽く

す神の姿を彼らは遥か太古より万物を通してその肌で感じ取ってきていた。教義や神学と

いう頭を通して理解するのではなく、日々の一日一日の生活の中から魂に深く刻まれて

きたのである。アメリカ・インディアン、シモーヌ・ヴェイユ、アッシジの聖フランシスコ。これ

らの魂に引きつけられている私のこの旅はまだ始まったばかりである。

1996.11.22


 
 


ところで、このホームページは私の遺書だと思って書いています。私自身いつ死んでしまうかわか

りません。それは明日かもしれませんし、何十年も先のことかも知れません。ただ自分が大事にし

てきたこと、美しいと思ったものをこのホームページに綴っていくことが自分が生きてきた証だと思っ

ています。私が死んでしまえばこのホームページも自然に消滅してしまいますが、もしほんの少しで

も皆さんの心に残ったのなら、そして皆さんの一つの踏み台になれればそれだけで満足です。皆さ

んにとって多くの実りある出会いが沢山恵まれますよう、祈っています。

2009年10月6日


 
 

2016年4月4日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した記事です。



(大きな画像)


アイスランド南部にあるセリャラントスフォス(滝)とオーロラ
(写真1枚目はNASAより、それ以外は他のサイトより引用)



1枚目の写真、幻想絵画かなと思いましたが、滝の水しぶきで何度もレンズを拭きながら撮られた写真です。



オーロラのやや右側に明るく輝く星が織姫星(ベガ)、左側に輝く星が彦星(アルタイル)です。



ですから天の川が位置するところにオーロラが出現したんですね。



北欧では死者と生者の世界を結びつけているのがオーロラであり、イヌイットの伝説ではこの世で善い行いを

した人はオーロラの世界へ行けると言われているようです。



死後の世界を意識することによって、初めて生の意味が問われてきたのかも知れません。



それはギリシャ哲学(ソクラテスプラトンなど)よりも遥か太古の世界、ひょっとしたら私たち現生人類よりも

前の人類にも芽生えた問いかけのように感じています。



オーロラなど天球に映し出される様々な現象(太陽、月、天の川、星、彗星など)を通して、人類は異なる次元の

世界を意識し死後の世界とのつながりを感じてきた。



ただ、精神世界の本に良く見られる「光の国(星)からのメッセージ」的な言葉に違和感を感じているのも事実です。



自分自身の足元の大地にしっかりと根をはらずに、ただ空中を漂っている、或いは彷徨っているような感じしか

受けないからです。



アインシュタインの相対性理論、まだ理解は出来ていませんが、それぞれの立場によって時間や空間が変わる、

それは他者の立場(社会的・文化的・経済的)を想像することと同じ意味を持っているのではと感じます。



もし、相対性理論なしでカーナビを設定すると現在地よりも11キロずれたところを指してしまいますが、それが

人間同士や他の生命間のなかで実際に起こっている。



自分自身の根をはらずに、他者のことを想像することなど出来ないのではないか、その意味で私も大地に根を

はっていないのでしょう。



一度でいいからオーロラを見てみたいです。




 


2012年8月12日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した記事です。



過ちと回心



回心すること、新しく生まれ変わること、その真の意味を私は本当に理解できているの

だろうか。



私たちは先住民に対して、太古の時代から自然と環境に調和する人々と捉えているが、

1万3000年前のアメリカ大陸では現代の私たちがしてきたことと同じように、乱獲などで

31属の大型草食動物が絶滅されたと言われている。



これはアメリカ先住民に限らず、オーストラリアのアボリジニ(最近の研究で明らかに

なりつつある)など世界各地に共通することかも知れない。



過去と現代、同じ過ちを犯していたとしても、彼ら先住民と私たち現代人の決定的な

違いは、過去から学んだ「知の遺産の継承」(国立科学博物館の海部陽介氏が提唱し

ている進化の仮説)、この場合は「回心の継承」とも言うべきものがあるかどうかなの

かも知れない。



先住民は、過去の過ちから学んだ教訓、それが回心となって魂に刻まれたが故に、

1万年以上も渡って世代から世代へと受け継がれてきたのではないだろうか。



私たち現代人は、動植物の絶滅と共に戦争など多くの悲劇を目の当たりにしてきた

が、果してそこから得られた、揺らぐことのない教訓が1万年先の人類にまで共有さ

れたものになっていくのだろうか。またそこに回心と呼べるものが存在しているのだ

ろうか。



ホモ・サピエンス(現生人類)は1万3000年前に一時陸続きになったベーリング海峡

を渡ってアメリカ大陸に来たとされているが、アメリカ先住民の多くはそれを否定し、

「自分たちは天地創造の時に亀の島(アメリカ大陸)に置かれた」と主張している。



ミトコンドリアなどの遺伝子解析から見れば在り得ないことだが、真に回心し、新しく

生まれ変わったことを体感した人ならば「今、私たちは生まれ変わり、そして今、私

たちはここに立つ」と言えるのだと思う。



この回心、それはシャーマニズムアニミズムとも関わってくるが、私自身はシャー

マニズム・アニミズムは1万3000年前より遥か太古の時代に生まれたと思っている

し、その背景にはネアンデルタール人などの旧人と言われた人の存在があったの

ではと感じている。細々と、しかし脈々と受け継がれてきた精神が1万3000年前に

多くの人々に共有され花開いたのかも知れない。



話はそれてしまったが、回心、1万3000年前の現生人類が体感したこと、それは私

が想像するより遥か高い次元での回心であったと感じてならないし、次の世代へ

継承させるために、私たちはこの回心の真の意味を心に感じることから始めなけ

ればいけないのかも知れない。



(K.K)



 

 

2012年7月27日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した記事です。







原罪の神秘



キリスト教の原罪、先住民の精神文化を知るようになってから、この原罪の意味するところが

何か考えるようになってきた。



世界の先住民族にとって生は「喜びと感謝」であり、そこにキリスト教で言う罪の意識が入る

余地などない。



ただ、新約聖書に書かれてある2000年前の最初の殉教者、聖ステファノの腐敗していない

遺体、聖フランシスコと共に生きた聖クララの腐敗を免れている遺体を目の前にして、彼ら

の魂は何かに守られていると感じてならなかった。



宇宙、そして私たちが生きているこの世界は、未だ科学的に解明できない強大で神秘な力

に満ち溢れているのだろう。



その神秘の力は、光にも、そして闇にもなる特別な力として、宇宙に私たちの身近に横た

わっているのかも知れない。



世界最古の宗教と言われるシャーマニズムとその技法、私が感銘を受けたアマゾンのシャ

ーマン、パブロ・アマリンゴ(NHKでも詳しく紹介された)も光と闇の二つの力について言及し

ている。



世界中のシャーマンの技法の中で一例を上げれば、骨折した部分を一瞬にして分子化した

のちに再結晶させ治癒する光の技法があれば、病気や死に至らせる闇の技法もある。



これらの事象を踏まえて考えるとき、その神秘の力が遥か太古の時代にどのような形で人類

と接触してきたのか、そのことに想いを巡らすこともあるが、私の力の及ぶところではないし、

原罪との関わりもわからない。



将来、新たな遺跡発見や考古学・生物学などの各分野の科学的探究が進むことによって、

ミトコンドリア・イブを祖先とする私たち現生人類、そしてそれより先立って誕生した旧人

言われる人たちの精神文化の輪郭は見えてくるのだろう。



しかし私たちは、人類・宗教の歴史その如何にかかわらず、今を生きている。



原罪が何であれ、神秘の力が何であれ、人間に限らず他の生命もこの一瞬・一瞬を生きて

いる。



前にも同じ投稿をしたが、このことだけは宇宙誕生以来の不変の真実であり、これからも

それは変わらないのだと強く思う。



最後にアッシジの聖フランシスコが好きだった言葉を紹介しようと思います。尚、写真は

聖フランシスコの遺体の一部で大切に保存しているものです。



私の文章で不快に思われた方、お許しください。



☆☆☆☆



神よ、わたしをあなたの平和の使いにしてください。

憎しみのあるところに、愛をもたらすことができますように    

いさかいのあるところに、赦しを

分裂のあるところに、一致を

迷いのあるところに、信仰を

誤りのあるところに、真理を

絶望のあるところに、希望を

悲しみのあるところに、よろこびを

闇のあるところに、光を

もたらすことができますように、

助け、導いてください。



神よ、わたしに

慰められることよりも、慰めることを

理解されることよりも、理解することを

愛されることよりも、愛することを

望ませてください。



自分を捨てて初めて

自分を見出し

赦してこそゆるされ

死ぬことによってのみ

永遠の生命によみがえることを

深く悟らせてください。

☆☆☆☆




(K.K)



 

2014年1月19日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿したものです。





「もし私が何か良いことをしたのなら、それらは全て神に帰するように」



この言葉は確か童話作家のアンデルセンの言葉だったと記憶しているが、今の私に欠けているもの、

それを全て現しているといっても過言ではない。



私に限らず人は、自身の名誉や成功に対する称賛の風を、自分の中にしまい込みがちである。



しかしそれでは風はさえぎられ、新たな風を産み出すことはできない。



アッシジの聖フランシスコが好んで唱えた「平和を願う祈り」、この祈りには、自身を「平和の道具」と

して使われることへの揺るぎない自覚が横たわっている。



私に向かって吹いてくる風は、良いものも悪いものもある。



しかしそれらの風が私をすり抜けるとき、また違う風を産み出すことが出来ればと思う。



宗教を問わず、神を信じているか否かを問わず、新たな浄化された風を世界に送り出すことができる

人は、聖なる人なのかも知れない。



現代社会を見ていると、いい風ばかり吹いているとは決して思わないが、一人ひとりが新たな風を

産み出しつづけるなら、きっと世界は変わっていくのだろう。



☆☆☆ 写真は、2012年8月25日の夜明けの光景ですが、まるで不死鳥のようですね。☆☆☆



 


2012年4月27日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した記事です。



モーリス・ズンデル神父(1897-1975)



昨年の12月21日に簡単にモーリス・ズンデル神父の言葉を紹介しましたが、神父はそのユニーク

な思想のため教区を追われ、各地を転々とさせられます。私は神父の生涯を振り返ると映画「ラ・

マンチャの男」を思い出さずにはいられません。



「ラ・マンチャの男」は「ブラザー・サン シスター・ムーン」と共に私の宝物ですが、「ラ・マンチャの

男」の主人公セルバンテスは公衆の面前で教会批判の演劇をし、従者サンチョと共に投獄され、

宗教裁判にかけられます。



獄中で裁判を待つ間、他の囚人がセルバンテスが大事にしていた脚本を燃やそうとしたとき、

セルバンテスは弁明を求めます。



この弁明が「ドン・キホーテ」で、この物語の登場人物の役を囚人一人一人に与え、演劇を通して

自身の潔白を訴えていく物語です。



映画の主題歌「見果てぬ夢」も素晴らしく、いつまでも心に響いてやまない作品です。



話を元に戻しますが、もしズンデル神父が中世に生きていたら、間違いなくセルバンテスと同じ

ように異端として宗教裁判にかけられていたことでしょう。



しかし彼の視点はどこから産まれたのか、それはもしあると仮定するならば、あらゆる宗教の下

に共通の地層(泉)、そこにまで彼自身の根っこが伸びていたのではないかと感じてなりません。



ズンデル神父に限らず他の宗教の偉大な魂はこの根源的な地層(泉)まで自身の根っこを伸ば

しており、その宗教をより洗練されたものへ深めていった。



ズンデル神父で言えば、聖書の言葉に新たな生命を吹き込んだとでも言えるのかも知れません

が、それは聖書の言葉を文字通りに受け取るのではなく、その背後にある真意を汲み取ること

ができたとでも言っていいかも知れません。



勿論、この共通の地層(泉)が本当にあるかどうか私にはわかりません。



ただ、これからも既存の宗教や世界の先住民たちの偉大な魂は、この地層(泉)に触れ、私たち

に新たな生命を吹き込んでいくように感じてなりません。



最後にモーリス・ズンデル神父の言葉を紹介しますが、ズンデル神父がヴァチカンの黙想指導に

招かれたのは死の3年前のことでした。



☆☆☆☆



聴くこと! 何よりも貴い、何よりも稀な、しかし、何よりも必要な行為。いのちの深淵をあかしし

てくれるのは、ただ沈黙だけである。



☆☆☆☆



(K.K)



 

 


2012年1月11日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した記事です。



「ルルドの奇跡」で有名な聖ベルナデッタ(1844年〜1879年)の写真です。



昨日(1月10日)の投稿は少し気合が入りすぎたかなと思いますが、今日も少しだけ真面目に、

長くなりますのでお付き合いください。



私は教会を離れた身です。それは教会が悪いのではなく私自身の弱さ、未熟さがそうさせた

のだと断言できます。話は前後しますが、私は結婚する1ヵ月前にカトリック教会で洗礼を受

けましたが、それはアッシジの聖フランシスコを通してキリスト教に惹かれていたからだと思い

ます。



新婚旅行で、このアッシジ、そしてバチカンを巡りました。当時バチカンにはヨハネ・パウロ2世

に日本語を教えていた西山神父さんがいました。私の妻の知り合いで西山神父さんを知って

いる方がおり、その紹介で私たちは、バチカン宮殿の立ち入りを許可されていないところまで

案内してもらいました。



アッシジでは聖フランシスコゆかりの地を巡礼しました。このアッシジで強く心に残っているのは、

聖フランシスコに語りかけた十字架、彼ら兄弟会の心の故郷ポルチウンクラという小さな礼拝

堂、そして聖フランシスコの精神を最も体現したと言われる聖クララの遺体です。



聖クララの遺体は黒くミイラ化しているものの、死後750年経っても腐敗を免れています。写真

の聖ベルナデッタも死後130年経っても腐敗していません。この「腐敗しない」体というものをど

う捉えていいのでしょう。ちなみに教会には沢山の聖人がいますが、その全てが腐敗しないと

いうことではないのです。アッシジの聖フランシスコもそうですし、前の投稿で紹介したピオ神父

もその遺体は腐敗していました。



この答は一人一人違うのかも知れませんし、現代科学では説明できなくとも将来その秘密が

解明される時が来るかも知れません。ただ当時の私は深く考えもせず不思議な光景だとしか

見ていなかったように思います。バチカン宮殿の奥にあるヨハネ・パウロ2世の「祈る部屋」に

は十字架のないイエス・キリスト像がありました。西山神父さんは「これは法王自らが十字架を

背負わなければならないことを意味している」と説明されておりましたが、この部屋の近くの廊

下に最初の殉教者ステファノの遺体(首)がガラスケースに置かれていました。



私自身歴史には詳しくないのですが、紀元後35年か36年に聖ステファノは石打ちの刑に処せ

られます。そしてそれから約300年後のホノリウス帝の時にステファノの遺体が発見されます。

恐らくそれ以降は人目に触れさせずにバチカンに保管されていたのだと思います。その遺体

(首)は腐敗していませんでした。ただ顔の半分にひどい拷問を受けた跡が残り、耐え難い苦

痛のうちに絶命したことがわかります。しかしこの遺体も十字架のないイエス像と同じように

法王自らが負わなければならない責務を思い起こさせるためなのだと感じてなりませんでした。



聖ステファノ、聖ベルナデッタ、聖クララの腐敗しない遺体をどのように解釈したらいいのでしょ

う。それは神からの伝言であると私は感じています。ただ、その伝言から何を受け取るかは一

人一人に託されているように思います。



最後に私に関してですが、キリスト教の霊性と先住民の霊性が合い交わるところを捜している

のかも知れません。1492年のコロンブスのアメリカ大陸上陸から500年以上にも渡る、先住民

の辿ってきた長き苦難の道にキリスト教も深く関わってきました。その疑問が頭から離れない

でいるのかも知れませんが、ただそんな探求に意味があるのかもわかりませんし、私みたい

なろくでもない野朗がやること自体滑稽なことであり、必ずどこかで挫折するとは思います。そ

んな私でも、心の拠り所としているのは、アウシュビッツで亡くなった無名の女性の魂なのかも

知れません。それを紹介して終わりにします。



☆☆☆

それにも拘わらず、私と語った時、彼女は快活であった。「私をこんなひどい目に遭わしてくれ

た運命に対して私は感謝していますわ。」と言葉どおりに彼女は私に言った。 「なぜかと言いま

すと、以前のブルジョア的生活で私は甘やかされていましたし、本当に真剣に精神的な望みを

追っていなかったからですの。」その最後の日に彼女は全く内面の世界へと向いていた。「あそ

こにある樹は一人ぽっちの私のただ一つのお友達ですの。」と彼女は言い、バラックの窓の外

を指した。外では一本のカスタニエンの樹が丁度花盛りであった。病人の寝台の所に屈んで外

を見るとバラックの病舎の小さな窓を通して丁度二つの蝋燭のような花をつけた一本の緑の枝

を見ることができた。「この樹とよくお話しますの。」と彼女は言った。私は一寸まごついて彼女の

言葉の意味が判らなかった。彼女は譫妄状態で幻覚を起こしているだろうか?不思議に思って

私は彼女に訊いた。「樹はあなたに何か返事をしましたか?-しましたって!-では何て樹は言っ

たのですか?」 彼女は答えた。「あの樹はこう申しましたの。私はここにいる-私は-ここに-いる。

私はいるのだ。永遠のいのちだ。」

フランクル「夜と霧」より引用

☆☆☆



(K.K)


 
 

2015年11月22日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した記事です。




数年前に、ある人に出会った。彼女は看護師さんで入院している患者さんの死期が不思議なことに見えると話していた。



彼女の言葉を確信したのはあることだったのだが、このような千里眼とでもいう能力は世界の先住民やカトリック

ピオ神父などが有名)にも見られる。




アイヌでは故・青木愛子さんは知られているが、沖縄・奄美のユタは殆どが女性で、ある日突然にその兆候が現れる。



日本以外のシャーマンは男性が多く、修行を経てからのに比べると沖縄・奄美のユタは世界的にも珍しいのかも知れない。



詳しくは知らないが、日本の東北地方のイタコ(元々は先天的もしくは後天的に目が見えないか、弱視の女性の職業)や、

瞽女(ごぜ)もそうだった。



盲目の旅芸人「瞽女」、彼女たちを幸いもたらす聖なる来訪者・威力のある宗教者として昔の人々は迎え入れた。



キェルケゴールは、「真理の証人とは、その一生涯、内なる戦い、恐れ、おののき、誘惑、魂の苦悩、霊的苦痛を深く

味わい尽くした人のことである。真理の証人とは、殉教者のことである」と言った。



これに似た苦悩はイヌイット(カナダ北部の先住民)、ブラジルの先住民のシャーマン(パブロ・アマリンゴはNHKでも

特集された)、チベットのある賢者や他の宗教・芸術家にも見出すことが出来ると思う。



しかしそれとは異なる側面を持つ力もあると思う。



エクソシスト(悪魔を追い出して正常な状態に戻す賜物をもった神父)



悪魔や悪魔祓いというと、中世のキリスト教が行なった残酷な魔女裁判を思い浮かべ嫌悪するだろうし、悪魔など

過去の迷信と思っている人も多いだろう。



ただ皆さんも知っているアッシジの聖フランシスコや、前述したピオ神父は魔女裁判とは本質的に異なるもの(悪魔)

に苦しめられていた。



現代のバチカンではエクソシストになるには非常に高い徳性と経験が求められ、先ずその症状が精神性の疾患で

ないことを踏まえたうえで行なわれているが、ある特殊な賜物が与えられていない限り出来ないことだと思う。



ハワイ先住民南米大陸・アマゾン先住民のシャーマンの中には、そのような異なる側面の力を使う者がいることが

書かれているが、それは世界各地・日本でも見出せるのだろう。



ヒッグス粒子、これを神の粒子と呼ぶ人もいるが、それは物理学の次元での真理であり、神の領域とは異なるものだと思う。



宇宙創成から、現在にまで膨張を続ける宇宙、その力は完全に物理学の法則で説明(現代では不可能であっても)し得る

ものを未来の人類は見出すと思う。



ただ、それは力そのものでしかなく、その力とどのように接触するかの姿勢は別の話であると感じる。



真実の話か比喩かわからないが、ブッダは川の水面を歩く行者を見て、その修行に何の意味があるのかを問い

嘆いている。



聖書も「わたしに預言をする力があり、あらゆる奥義とあらゆる知識とに通じていても、また、山を移すほどの強い信仰

があっても、もし愛がなければ、わたしは無に等しい」(コリント人への第一の手紙)とある。



存在を慈しむことと、存在を否定することの境界。



そこには物理学の真理とは異なる次元と境界、ヴェイユの言葉を借りると「重力と恩寵」の恩寵(おんちょう、神の恵み・

慈しみ)が、私たちと神なる領域の唯一の接点であり跳躍であるのかも知れない。



私にはそれが肌を通して浸透はしていないし、冒頭の彼女のような賜物も有していない。



ただ難しいかも知れないが、方向性だけは見失いたくない。



写真は、惑星状星雲・NGC6543です。



 

2012年5月2日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した記事です。


もし私が総理大臣だったら



自分が総理大臣だったらと政治・経済のど素人が敢えて最悪の事態を想定し、勢いで書いてしまいました。

存分に笑い飛ばしてください。また一つ一つお答えできないかもしれませんが、批判は受けつけます。



@企業、研究機関、各分野の専門家を結集させ自然エネルギー研究の国家プロジェクトを早急に立ち上

げる。



 これは一刻も早く原発廃炉の道筋をつけるためのものであり、3年間の間で実用化は難しくとも、その

理論の構築或いは方向性だけは何としても探さなければならない。これは国家を超えて人類の命運を

左右する最優先のプロジェクトだと認識する必要がある。



 そして3年後に、原発の是非について国民投票を行う(B参照)。



 また使用済み核燃料を如何に安全にしかも早く処理できるかの研究は、原発を産んだ科学者としての

責務であり、平行して行うことが不可欠である。



A現在の世界・社会情勢に機敏に対応できる体制をとっておくこと。



 イスラエルがイランの核施設攻撃を行えば中東戦争が勃発し、原油の7割、天然ガスの3割が途絶える。

また戦争が長期に渡るか拡大すれば備蓄も底をつくであろう。中東以外の天然資源にしろ世界的に価格

が高騰するどころか、電力の需要を満たすべき量を確保することは困難である。そのような最悪の事態を

想定した対策を取る必要がある。



B Aに関連するが、この最悪の事態に何の備えなく遭遇すれば、多くの企業は倒産し失業者にあふれ、

社会的弱者が先ずその犠牲になる。それを防ぐには何をすればいいのか、原発再稼動も視野に入れて

いいのか、それとも否なのか、今から国民的な議論をしなければならない。



C Aに関連し自然災害にも適用されるが、多くの人が現在の仕事を失ったときのことを踏まえ、生きて

いくうえでの最低限の生活を守るため「村社会」を復活させ、さまざまな問題を村社会の住民同士で集積・

共有化・報告できる社会の構築を急がねばならない。そして村社会を統合する行政機関が、各村社会に

食糧や必要物資の供給をするが、如何に迅速にそして平等に配分できるかなど、その方策を国が早急に

立てるべきである。



D Cに関連するが、大震災はいつ起こるか全くわからない。倒壊や火災など地震そのものの甚大な被害

が広範囲に広がっているだろう。倒壊や火災による人命救助は村社会が率先して、或いは隣の村と協力

することで迅速に動くことが命を助けることに繋がる。安否確認などのためにも村社会の住民の台帳を村

社会の複数の人間が管理しなければならないが、この個人情報を悪用させないための罰則などの規定も

当然必要である。



E ACDに関係するが、平常時から一人一人が助け合う精神を持つことこそ、大きな自然災害や戦争

などの世界情勢悪化に対して最も有効な防御であり対処の仕方である。「自分さえ安全だったら、豊か

だったらいい」という市場原理主義的な考えからの脱却なくして村社会は実現不可能である。



F 今回の震災の被災地の復興、並びに放射能汚染対策に関しては、皆さんのご意見をお聞かせください。




(K.K)



 

2012年5月8日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した記事です。



東工大クロニクル-No.402


下に紹介する研究に留まらず、幅広い分野の叡智を結集させた国家プロジェクトを立ち上げ、

実用化に向けての一歩を早く踏み出してほしい。



そして縄文時代に戻ることは出来なくとも、またたとえ都会に住んでいても、人と自然が共鳴

する場を時間をかけて創造していくこと。



自分に何が出来るかわからないが、その方向性だけは見失いたくない。




(K.K)



 

2012年6月9日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した記事です。





40億年後の地球



250万光年も離れているアンドロメダ座大銀河は時速40万kmで、天の川銀河に近づいてきています。



そして40億年後に天の川銀河に衝突します。



そのシュミレーションがこの画像ですが、40億年後の人類、いや人類も進化の過程の通過点だとすれば、

どのような生物がこの光景を目にすることが出来るでしょうか。



私たちとは全く異なる体つきをしているのか、またその心は何を感じているのか。



進化論が正しいにせよ誤りにせよ、何らかの方向性を生物は与えられているように感じるときがあります。



私は古代の人より現代人が科学の面で進化しているものの、自然と人、人と人の絆は逆に退化している

ように思います。



与えられた方向性とは違う軌道を科学がとるとき、生物の取り囲む環境は物質的にも精神的にも混沌の

中に彷徨うことになるのかも知れません。



40億年後の生物、その生物は現在の混沌をさらに深めているのか、それともこのアンドロメダ座大銀河と

天の川銀河の衝突のように再び一つの身体になっているのか。



それを決めていくのは、現在の私たち一人一人なのかも知れません。




(K.K)



 

厚木市から見た「夜明け」の写真です。




2016年4月6日の夜明け(4時53分〜5時37分)の光景ですが、5日ぶりの朝陽です。

31年前の今日、カトリック山手教会で洗礼を受け、今では疎遠になってしまった教会。

いつか三位一体の互いを与え尽くさずにはいられない意味を感じられたらと思います。

☆☆☆

 


2012年4月26日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した記事です。



鳥越俊太郎さんの視点、ジャーナリストの中では数少ない平衡感覚を持った方だと以前から

思っていました。



ふとしたことで、鳥越さんのフェイスブック「ニュースの職人」の質問欄に投稿したところ、その

質問がネットのラジオで放送され、鳥越さんが解説してくださいました。



私の質問の意図は「ジャーナリストに必要な資質とは何だろう」で、それをある事件を例(高尚

なものではありません)として書き込みましたが、この放送の中で鳥越さんが話されたことを以

下に要約してみました。



☆☆☆☆



「事実と真実は違う。ニュースの画面で流れるのは事実だが、それは真実ではない。



真実はいろいろな角度から初めて見えてくるものだが、テレビや新聞のニュースではそれを

伝えきれていない。



私は長い間ジャーナリストをやってきたが、一度も真実を報道したことはないと思っている。



報道は一部の事実しか伝えていない欠陥商品で、私の基本的な姿勢は「報道は疑え」という

ことだ。



それはメディアは締め切りなど時間的な制約があり、事実だけを伝えることが多い。また取材

・編集・報道にそれぞれ違う人間が関わっており、それぞれの場にいる人間の主観によって

伝え方が変わってくる。



その意味でテレビなどの映像は事実だが、真実は伝え切れていないし、新聞も同じである。



真実、それは自分がどんなに真実に迫っていると思っていても、真実は神様しか知らない世界

にある。



それでも私が今までジャーナリストとして目指していたものは、今日は真実を伝えられなかった

が、明日は一歩でも二歩でも奥深い真実に迫ろうとする努力。



これがジャーナリズムの使命だと僕は思う。」



引用終わり



☆☆☆☆



この姿勢はジャーナリストに限らず、自分が信じていること(価値観や宗教も含めて)にも求め

られているのではと思います。



「真実を映し出す鏡」を心に持とうとしても持てるものではありませんし、たとえ手に入れたとし

ても直ぐ曇ってしまうものかも知れません。



しかしそれへと向かう、その方向性を持ち続けることにこそ大きな意味があるのだと感じて

なりませんでした。



(K.K)



鳥越俊太郎「ニュースの職人」チャンネル



 







Edward S. Curtis's North American Indian (American Memory, Library of Congress)


光の証人たち インディアン・ヴェイユ・聖フランシスコ 1997.12/3

夜明けの詩(厚木市からの光景)

アッシジの聖フランシスコ

アメリカ・インディアン

美に共鳴しあう生命

ホピの預言(予言)

シモーヌ・ヴェイユ

天空の果実


最初に戻る